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英語と文語 鈴木大拙の英文の秘密

鈴木大拙(1870-1966)『禅の第一義』を開いたとき、私は衝撃をうけた。

すべて文語体で書いてあるのだ。

1914年出版というから、大拙44歳のときのもの。

大拙は27歳から38歳までアメリカにいたから、この本は帰国後、学習院大で教えていたころに書いたのだろう。

大拙の文語をみて、「ここに大拙の英語力の秘密があるのではないか?」と私は直観した。

『禅の第一義』から引用してみよう。

我かつて一再となく、黙然として独座せるとき、この身の記号となれる文字(すなわちわが名)をわが心の中にくり返し念じたることありき...
言語文字とは畢竟(ひっきょう)これ影の世界のまたその影にすぎざるなり。

(鈴木大拙『禅の第一義』平凡社ライブラリー、2011年復刊、初版1914年、80頁)

これは英国の詩人テニスンの詩を大拙が要約した部分で、他の部分もすべてこのような文語で書かれている。

こうした文語体と彼の英語力は、どういう関係があるだろう。

たとえば、先の引用文の冒頭、

「我かつて一再となく、黙然として独座せるとき」

という部分では、「我」という主語に、「は」「が」といった助詞がない。

「読書百遍、義おのずから現る」のように、文語では文のテーマを提示するとき、助詞の類を言わないほうが文にリズムが出る。

これは英語の文型に似ている。

たとえば誰かが、

I ...

と言いだせばそれだけで、これは主語だと了解するのが英語である。もとより、助詞らしき語はない。

また、文語は論理の脈が簡明でたどりやすい。おそらく、口語よりも限られた表現パターンから選択するからであろうが、この選択感覚は、われわれが外国語たる英語を書くときの感覚に通じるものがある。

そして何より、文語で表現しようとすると、剣道で構えたときのように対象に距離をとった客観的な眼になる。これは、キャンバスに絵を描くように対象を客観化する英語の感覚に似ている。

ここで、大拙が書いた英文の例をあげてみよう。

全体は口語的な柔らかみがあるが、よくみると文の流れに文語的な骨格があり、そのことが文に格調を生んでいることに注目されたい。

Zen is not necessarily against words, but it is well aware of the fact that they are always liable to detach themselves from realities and turn into conceptions. And this conceptualization is what Zen is against. Zen insists on handling the thing itself and not an empty abstraction.

(Daisetz T. Suzuki, ZEN and Japanese Culture, Princeton University Press, 1970, p.5)

ためしに、大拙なら易々と書いたであろう文語調で同主旨を述べてみると、

禅、これ言語を敵とするにあらず、されど言語たるもの、常に現実より遊離し空虚なる概念へと逃避するの嫌いあるをよく知れり。概念への逃避、これ実に禅の敵とするところなり。空虚なる抽象を離れ、事そのものをつかむべし。これ禅の要諦なり。

といったところだろうか。

大拙の英語力の背景には、文語の力がある。

そう思えば、大拙が高度な英文を書けた理由も少し見えてくる気がする。

型にはまった文型感覚からくる文語文の明快性や、一語一語を客観的に置いていくようなリズム感。

これは、われわれが英語で表現する際の「構え」として参考になるかもしれない。

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