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パリの"kaki"、ニューヨークの"adzuki" は、なぜ外国語になった?

パリに行ったら、露店に柿があった。見ると、「kaki」と書いてある。

「カキは日本語ですよね」

そう売り子に言ったら、けげんな顔をして、

「kakiはフランス語だよ」

と答えたという。人に聞いた話である。

もう一つ、ちょっと似た話。

和菓子の老舗「虎屋」がニューヨークに支店を出したときのこと。

和菓子は小豆(あずき)の餡(あん)を材料に使う。ところが、欧米では豆類に高級なイメージがなく、これをお菓子に使うことに抵抗があった。

そこで、店ではこれを adzuki と呼び、とにかく客に食べてもらった。bean(豆)の一種であることは、そのあと口頭で説明した。

すると和菓子は次第に受け入れられていったという。(川島蓉子『虎屋ブランド物語』東洋経済新報社、41頁)

こうした話で重要な役割を果たしているのが、発音である。

パリのkaki、ニューヨークのadzukiは、つづりを工夫し、フランス語、英語として聞こえる発音にした。だから次第に受け入れられた。

発音が変わると、言語が変わるのである。

「発音には、そうこだわらなくていい」
「発音は最後でいい」

という人は、おどろくほど多い。

たしかに発音が完璧でなければ話してはいけないというものではない。しかし、だからといって「最後でいい」「こだわらなくていい」ということになるだろうか。スポーツでも芸事でも学問でも、基本的なことについて、「最後でいい」「こだわらなくていい」という人がいるだろうか。

英語の息、英語の声、英語の音で表現する。それが英語なのだ。

発音軽視は、日本の英語教育の徒労と失敗の、最初にして最大の原因かもしれないと、私は思っている。



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