見出し画像

英語が「コミュニケーションの道具」なら、なおさらていねいに使いたい

「外国語はコミュニケーションの道具だ」という言う人がいる。

言葉は便利に使えればそれでよく、とくに外国語は、細かいことを気にせずにどんどん使おう、という意味をこめて言うことが多いようだ。

外国語に浸ると無意識のうちに異文化にとりこまれ、自分本来の文化的アイデンティが危うくなると考える人もいる。そういう立場からは、「外国語は道具だ」というのは、

「外国語は、あくまでも道具にとどまるべきだ」

という主張にもなる。

...

一本の指揮棒を持てば、人はそれにふさわしい動きをするし、動きには人格がでる。外国語という道具でも、使う人の人格が出てくる。

外国語を使うなら、「それは道具にすぎない」とツッパるより、「外国語の道具をみがき、大事に使って、いい人格を表現しよう」と努力するほうが、立場が高いのではないだろうか。職人やスポーツマンは、道具を大事にしていい仕事をする。

外国語を粗末に扱えば、それなりの人格とみなされる。外国語が道具であるなら、なおさらていねいに学び、大事に使いたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?