サムライの気品が世界に通じた(おわり)

じっさいのサムライ英語の発音はどうだったのだろう?

福沢諭吉も伊藤博文も新渡戸稲造も、発音が完璧とはいえなかったらしい。当時の状況からすれば、それは当然であろう。

そして、それが悪いというわけでもない。

新渡戸は、発音の外国人風は「隠さんとしても隠しきれぬ」と開きなおり、英語がうまいかどうかよりも内容と誠実さが大事で、それは相手もわかってくれることであるから、「相手の人を疑うことなかれ」と書いている(明石康・NHK「英語でしゃべらナイト」取材班『サムライと英語』前掲、177頁)。

相手を人格的に信頼して、堂々と話すー

じつにいい言葉ではないか。

もちろん、言葉の選び方に神経を使う態度は大事だ。言葉をていねいに使おうとする態度があれば、それは相手にもわかるし、それが誠実な人格のあらわれにもなる。

私としては、発音は一生磨きつづけるのだという心がまえをもちつつ、じっさいに話すときは相手の人格を信頼して、明るく堂々としているのがよいと思う。

長年国連で活動した明石康氏は、国際舞台での演説は「訛(なまり)が少しあったほうが迫力がでるかもしれない」とさえいっている(前掲書、138頁)。

私もそう思う。


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