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外国語の強引な詰め込み 効果と傷跡

外国語を本格的にやろうとするとき、長時間いりびたり、丸暗記を試みたりすることにも意味がある。

ただ、そういうやり方は消えがたい疲労感を残すこともある。

私は、その種の強引な外国語学習の体験を、何人かから聞いたことがある。

スペイン現代史の専門家が、「スペイン史をやろうと思い立ち、さっそく短期間でスペイン語を詰め込んだが、あれはつらかった」と、しみじみつぶやいた。

ドイツ哲学の専門家が、「私はドイツ語でずいぶん無駄な時間と労力を費やしました」と実感をこめて語った。

ロシア史の専門家が、大学院受験の面接で「ロシア語が読めます」と嘘をついて合格したために、夏のゼミ発表までにロシア語を詰め込むハメになり、えらい目にあった。

日本在住のイタリア人が、「一日五時間、ノートに日本語を書きつづけた時期がある。あのときは手と頭がおかしくなりそうだった」と話していた(うまい日本語で)。

山田耕筰は、ドイツに留学したとき、早く作曲法の習得に専念しようと、短期間でドイツ語を強引に覚えようとした。努力の甲斐あって効果は出たが、強引にやりすぎて、すっかり疲労してしまったという話が自伝に書いてある。

こういう詰め込みの体験談に共通するのは、自分自身に強烈な動機があったことである。期間が限定されていると、詰め込みにさらに拍車がかかる。

外国語のドアをなんとしても押しあけようとするとき、全身の力を集中するほかない時期がある。

ようやくドアが開いて中に入ったとき、その世界の広大さに驚きもするが、ドアを開いたときに無理をしたという疲労感は、長く身体の底に残ることがある。




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