冠詞を無視した英語でいい?
英語の冠詞とは、正確にはどういうものなのか。
どう理解すれば、誰でもちゃんと使えるようになるのか。
冠詞を本気で解明したいと私が思ったのは、ある文法書に対する怒りがきっかけだった。
その文法書とは、江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)。
1991年に初版が出た黄色いカバーの分厚い参考書で、英語教師ならたいてい知っている。説明が詳しいので定評がある。
この本を読んでいたら、信じられないようなことが書いてあるのに目がとまった。そのまま引用してみる。
「『加算と不加算の区別は、その名詞の示す事物の実体とは必然的な関係はない』とQuirk [英語学者の名前] が言っているが、そのとおりであろう。上の work 以下の名詞がなぜ不加算なのかと問われても、決め手になる論理的な説明をすることはできない。たまたま英語では不加算名詞として扱われるということである。」(10頁。太字は引用者)
私は、思わず声を出しそうになった。ちょっと待ってくれ。名詞の加算・不可算について「論理的な説明をすることはできない」!? この人たちは「文法学者」ではなかったのか?
この本の冠詞の章には、こんなことまで書いてある。toothache(歯痛)やstomachache(胃痛)は、アメリカでは加算名詞だが、イギリスでは不加算名詞になることもあると述べたあと、
「こういう問題は細かいことを言い出すと際限がなくなり、われわれ非英語国民には手の出しようがなくなる。冠詞の一つや二つはどうでもよい、と開き直ったほうが賢明であろう。」(126頁。太字は引用者)
「冠詞の一つや二つはどうでもよい」!? これは、文法学者の敗北宣言ではないのか。「気にしなくてもいいよ」と寛容にアドバイスしているように見えて、じつは自分の無能をさらけだしているのではないか。
といっても、私は著者・江川泰一郎氏個人を非難するつもりはない。
そもそも学校で教わる「文法」は、「なぜそうなるか」については説明せず、「こういうケースと、こういうケースがあるから、マネしなさい」と分類しているだけである。
江川氏が冠詞を「説明できない」「どうでもよい」と言っているのは、「私にも説明に困るケースがある」と告白しているのであって、むしろ誠実な態度というべきかもしれない。
それにしても、専門の文法学者がこの調子である。
私は、この状態が許せなかった。「冠詞の一つや二つはどうでもよい」なら、いらないようなものなのか。ではどうして、冠詞のない英語は考えられないと英語話者は言うのか。
大学院生のころ、わからないもの(冠詞ひいては英語)を、わかるかのような顔をして予備校で教えた私。冠詞すらわからないのに、わかったような顔をして英語を教えつづけている学校。そして、わからないことが自分の責任であるかのように思い、勝手にあきらめていた自分と、英語に多大の時間をかけながら、冠詞ひとつ運用出来ない人々のみじめさ。
こういうものすべてに、私は怒りを感じた。小さな冠詞さえまともに説明できないのは、人間が言語にバカにされているということではないかとも感じた。
冠詞は、英語を数行書き、数分話せば、たいてい何度か使うほどの基本語である。その冠詞のまともな説明が、いまだに存在しない。
多くの日本人は、なかなか英語を使えない。
その原因は複合的なのだが、重要な原因の一つは、これほど重要な冠詞の説明が、英語研究者の無能と怠慢によってなおざりにされ、その結果、全国の教室でほとんど練習されないからである。
幸か不幸か、日本語には冠詞にあたるものがない。だから英文和訳のためには、英語の冠詞をきちんと理解する必要があまりない。日本の英語学習が「英文和訳」を中心にしてきた理由の一つは、和訳なら冠詞をまともに扱わなくてすむからである。
こうして冠詞はたいてい無視され、きちんとした訓練も行われない。
「冠詞など気にしないで、どんどん話して」という英語教師やネイティブは多い。
たしかに、小さな冠詞を気にして話せないとすれば、本末転倒である。だが、理解しないまま「どんどん話して」も、大人は冠詞が正確に使えるようにはならない。
8年間、アメリカの大学院にいた人が、「英文を書くと、いまだに冠詞を直される。でも、どうしたらいいかわからない」と嘆いていた。
冠詞ひとつ運用できなくて、まともな英語学習と言えるか。
そここそ、日本の英語の欠陥の代表的なものではないかと反省する必要もあるのではないか。
冠詞の訓練をしよう! そういう議論が起こらないところに、日本の英語論の根本的な欠陥がある。
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