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やっぱり異様な日本の英語教育 元凶は大学の怠慢

日本の英語教育の異様さ。

高校までの英語教育の目的・理由を推測してみると、

■将来、職場で英語が必要になるのに備えるため? ならば、英語を話す・聞くを最初の目的にすべきなのだろうが、現状はそうなっていないし、英語がほんとうに必要な職場はまだまだ少数だろう。

■大学に入学してから必要だから?    じっさいには、入学後、英語がそれほど必要ではない大学の学部はたくさんある。

■海外旅行で便利だから? オリンピックで来日した人を案内できるといいから? そんなことのためにあれだけ時間をつかうというのなら、論外だろう。

■英語を実際に使うわけではないけれど、英語をやらせれば、文句を言わずに丸覚えする学生が選別できるから?  こういうことを公然と言う人はあまりいない。しかし現状は、そう勘ぐりたくなるようなところもある。

■大学に入るために必要だから?  英語を勉強している中高生からみれば、たぶんこれがもっともわかりやすい目的・理由だろう。だが、上記のように、入学後に本当に英語を必要とする大学の学部はそう多くない。将来英語が必要になりそうな学生は、大学に入ってから目標とするレベルの英語をやればいいともいえる。

■外国語は、日本語とは異なる認識力・表現力を身につけるのに適しているから?  英語のウェブサイトやニュースがわかる、英語で発信できるといった能力は、ここに入る。これは立派な目的だが、現状の英語教育に欠けているのは、まさに英語による認識力・表現力である。

つまり、高校までの英語教育は、なにが本当の目的なのかがわかりにくい。

<高校までの英語はほんとうに「勉強」の対象なのか?>という疑問もある。

生活的な会話でいいのなら、高校や予備校の「文法」や「長文読解」でやるような膨大な「勉強」は必要ない。

生活レベルの表現を身につけるために<英語を勉強する>というのは、<水泳を勉強する>というのと似た違和感がある。生活的な英語は、勉強というよりスポーツに似た訓練になるはずだ。

もし大学が、うちの卒業生にはこれこれの英語力が必要だと思うなら、大学の責任で、そうした英語をしっかり学べる仕組みをつくるべきだろう。

もちろん、大学院や企業で英語を使うなら、<英語を勉強する>必要がでてくる。そういう人は、そういう勉強を大学入学後にすればよい。

だが、大学での英語教育の現状はお寒い限りで、たとえば入学後の「英語」のクラスには、学生を60人くらい詰め込んでいることが珍しくない。少ないところでも30名くらいであろう。これで英語ができるようになったら、奇跡に近いのではないか。

こうしてみると、いまの惨状を生んでいる元凶は、必要もないレベルの英語を受験科目として課し、膨大な労力を中高の学校や予備校に丸投げしている大学だともいえそうだ。

...

何かがおかしい。だが、何がおかしいのか正確につかめずに混迷している。それが現状だろう。

日本の英語教育は、これからも混迷し、浪費を重ねていくだろう。

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