英語は「お稽古」でいこう 岡倉由三郎のリアルな提言
文科省が、「英語が使える日本人」を育成する戦略構想を発表したのが2002年。
これは「大多数の日本人は英語が使えない」ことを政府が公式に認めたということでもある。この状態は、明治以来の100年間、変わっていない。
昭和初期から長年ラジオ英語講座の講師をつとめた岡倉由三郎(おかくら・よしさぶろう 1869‐1936)は、約100年前の1911年に、次のような文章を書いている。
たとえば長男は中学で5年間英語を学び、次女は学校で裁縫を5年間「稽古」したとする。
次女はいちおう着物が縫えるし、羽織袴の仕立てもかなりできるだろう。「5年の稽古は確かに相当の効果を収めて居る」。
ところが長男の方は「普通な英書も読めず、卑近な英文も書けず、5年間の修業は殆(ほとん)ど何ら纏(まと)まったる形跡を遺(のこ)」していない。
この「珍しく無い事」こそ、考えてみるべき「屈強の例証」である。
(『英語教育』1911年。斎藤兆史『日本人と英語 もうひとつの英語百年史』研究社、2007年、49、51頁より引用)
では、英語は何年やってもモノにならないのに、裁縫の稽古はなぜ5年で「相当の効果」があるのか。
裁縫のほかにも、茶道華道や野球水泳などは目的や内容が明確で、動作も<目に見える>。こういうものは「稽古」の対象であり、数年もやればかなり身につく。
逆に英語とか数学とか国語とか、学校の主要教科は目的や内容が膨大かつ漠然としたところがあり、これといった固有の動作もなく、<目に見えにくい>。こちらは数年やっても、習得方法も成果もわかりにくい。
じっさい、学校の英語の時間は数学の時間みたいだったという人がいた。そういえば、日本の教室では英語を見れば「和訳」を書かないと気が済まないことが多い。これはちょうど、数学といえばやたらに問題を解いて答を書かせるのと似ている。英語は数学と同じく抽象的な<頭の体操>であり、机に向かってペンを動かすものであって、それを身体の<お稽古>にするなど、日本の学校では思いもかけないことだったのかもしれない。
裁縫やスポーツのようにルールが明快で結果がわかりやすく、そのための身体運動の型がわかったなら、大多数の日本人は英語の基礎が身につけられるはずである(ラジオ体操を見よ)。
英語をお稽古にすれば、「英語が使える日本人」は実現すると言っていいだろう。
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