「夕立ち」はやがて止む(後編)


後半は、オブラートに包まずに「夕立ち」の背景に迫ります。
これが一つの正解であると主張するつもりではなく、わたしから見るとこういうふうにうつるという話です。
ただ今回の話は、読む人の曲への印象に大きな影響を残しかねないので、その覚悟がある人だけ続きをどうぞ。

「夕立ち」
After the Rain

6.君がいなくなった世界は痛い

檻の中は狭い
身体は大きくなるのに
君と過ごしたこの世界が
棘だらけで痛いんだよ

◇「檻の中は狭い 身体は大きくなるのに」
昔からずっと自分は「檻の中」にとらわれている状態であることが分かる。

【参考①】永眠童話(2014)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる)
以前「檻の中」にいた自分は、小さな存在だった。
「始発に飛び乗って 無い知恵を絞って
檻の中 唱って 小さな僕を証明するんだ」

【参考②】天罰(2015)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる)
”狭い”場所の話を歌った歌詞。
狭い箱の中 歌を歌って何がしたい?」
これを踏まえると、『夕立ち』の「狭い檻の中」というのは歌を歌っている環境のことだと推測できる。

ちなみに「檻の中」というと、一般に、罪人のような捕らわれの身、身動きがとりづらい場所、あるいは動物園のように人の目にさらされる場所などの比喩として用いられるが、
音楽の場を「檻の中」と表現しているものに、次の曲がある。
【過食性:アイドル症候群】(2013)
「that's アイドル 馬鹿は舞い踊る
鼻で笑って 檻の中でダンシング └( ^ω^ )」 」
【Septet minus a fear】(2015)
「一つ足りない七重奏 マイナスワンの団結
やられた分だけ 檻の中も恨んで哭いた」
作詞はどちらもスズムさんだ。

わたしは例えば、まふまふさんの『第2次カラクリ国家計画』は、スズムさんの『過食性:アイドル症候群』に影響を受けていてもおかしくないとすら思っている。(『第2次カラクリ国家計画』には「手を伸ばしちゃってお祭り騒ぎ 何がいいやら 着ぐるみを着たアイドル脳」という歌詞がある)
曲の影響関係の真偽は作った本人にしか分からないのでこれ以上は立ち入らないことにするが、
とにかく『夕立ち』の二番以降は、二人にとってキーパーソンとなっているスズムさんをめぐる話になる。

◇「君と過ごしたこの世界が 
棘だらけで痛いんだよ」
「君」は、どうやら今は自分と同じ世界にはいないらしい点から、スズムさんと仮定されうる。
「棘」というのは、“棘のある言葉”という際のそれだろう。
スズムさんがその名義での活動を引退したあとの世界に残されたボクは、心を傷つけるような言動に苛まれている。

【参考】立ち入り禁止(2016)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
「誰もに否定されて 救いも無くて
自分を呪っている日々」
「罵声 暴力 逃避行 嫌いだって
石を投げられ」
「痛い痛い痛い ココロが
未だ『心臓』なんて役割を果たすの」

7.取り繕って心がだめになりそう

逃げ出してしまいたいな
傷が爛れていく前に
目も当てられない顔だ
心がお釈迦になりそう

◇「逃げ出してしまいたいな
傷が爛れていく前に」
治癒していない以前の傷が、「棘」によってえぐられ再び悪化してしまいかねない状況。
まふまふさんの歌詞では、「傷」はリストカットの痕を指すことが多い。
自傷行為にいたるほどに精神的に追い込まれていることの象徴だろう。

【参考①】落書きの隠し方(2015)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
「目深にかぶった帽子と手首の傷

【参考②】アンチクロックワイズ(2017)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる、まふまふ)
「野次も罵声も品評も
否定しなくちゃ 愛か
等間隔に刻んだ メモリ状の傷

【参考③】ふたりぼっち(2017)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
「こんな両腕だけが貴方の傷をわかるんだ」

◇「目も当てられない顔だ 
心がお釈迦になりそう」 
心がだめになると続く点から、このひどい顔は外傷的な醜さではない。
無理に笑ってその場を取り繕い続ける、そんな自分を見ていられないのだ。

【参考】ハンディキャップ(2017)
(作詞作曲:まふまふ)
「深く首まで被さっている
作り笑いの脱ぎ方を知らない」
「あっちむいて こっちむいて
取り繕って
ボロボロに破れて 痛いよ
あと一歩 歩けば自由になれるの?
ゴミ箱を満たすボクの顔」

8.自分が変わったせいで

傷つけあって 喧嘩して
明日も仲間と言えたあの頃と違うのは
他でもない ボクの望んだボクだった

◇「傷つけあって 喧嘩して 」
お互いに傷つけあって喧嘩をするということは、見知らぬ敵を相手にしているわけではなく、近しい間柄のいさかいだ。

◇「明日も仲間と言えたあの頃と違うのは
他でもない ボクの望んだボクだった 」
かつてこれからもずっと仲間でいられると信じていた人がいたのに、今は傷つけあうようになってしまった。その原因はあの頃と自分が変わってしまったせいだ。

「仲間」と呼んでいたのは、そらるさんがかつて活動していた『あすかそろまにゃーず』というサークルだろう。スズムさんが引退した後に、サークルの今後の活動について曖昧にしたまま、After the Rainとして活動の本格始動するような形になったこと、そのけじめを自分がつけなかった代償をいま被っているという認識なのかもしれない。

自分がどういう行動を選択するかを決めるのは自分だし、行動を選択しなかったのも自分。いつでも自分は「ボクの望んだボク」に過ぎないのだが、自分の道を歩んでいく中で、知らぬ間にあの頃とはずれてしまっていたのだ。

9.君ともう一度おしゃべりしたい

知ったふうな口利くな
馬鹿の一つで決めつけるな
君はどうなの 答えてよ
ねえ

◇「知ったふうな口利くな
馬鹿の一つで決めつけるな 」
このパートは、歌詞が一部酷似していることから、『負け犬ドライブ』で歌っているような内容をいっていると考えられる。

【参考①】負け犬ドライブ(2017)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
「知ってる風な口きくな」
「正々堂々やってんの
なんだい文句でもあるの
低IQなうピストルで
打ち抜いてみせてよ」
『負け犬ドライブ』はまふまふさんいわく、自分たちの活動の中で溜まるフラストレーションをぶちまけた曲(雑談放送より)ということなので、
自分達のことについて何かよからぬことを吹聴する者がいて、それに迷惑しているのだろう。
そして「新品のシャツに着替えて 首輪をつけてる癖して」という歌詞からも、この曲の標的は、別名義で活動を始めたスズムさんだと推測できる。

【参考②】すーぱーぬこになりたい(2016)
(作詞作曲:まふまふ)
実はこの曲に、『負け犬ドライブ』がスズムさんのことを歌っているとわかるヒントが隠れている。
①「こんにちは、お昼のニュースをお伝えします。
今日未明、のら県もふもふ区ねこがしら公園付近にお住いのシロノタマさんのにぼしが奪われるという事件が発生しました。
なお、現在も犯人は逃走中の模様。」
この冒頭のナレーションは、スズムさんによって、まふまふさんが曲を盗作された件の風刺だ。
だから、「にぼし(曲)」は「国産(自分のところで生まれたもの)」である。
②「にゃーって鳴いて×5
わんって鳴いた あの子はだあれ?」
「ぬこ」に混ざっている犬は異質の存在。この「わんって泣いたあの子」が、自分たち側にいないスズムさんである。
この「犬」の比喩からも『負け犬ドライブ』はスズムさんにあてた曲であると考えられる。
(一応、スズムさん作詞の『負け犬至上主義』という曲があるということも補足)

◇「君はどうなの 答えてよ ねえ」
『負け犬ドライブ』では「ボクとその身朽ち果てるまで明かそうぜ」と歌っていて運命を共にする覚悟があるし、『すーぱーぬこになりたい』では、「あの子ともう一度おしゃべりしたい」と歌っている。
そうした思いを垣間見ると、『夕立ち』の「君はどうなの 答えてよ ねえ」の部分は、かつてとても親しかった友人に対する切実な叫びにも聞こえる。

10.  これでいいと思い込みたかった

何をゴミに出した 手に余る思い出は捨てた
泥まみれの今日も これが幸せと信じたかった

◇「何をゴミに出した 手に余る思い出は捨てた」
「ゴミに出した」「捨てた」と、問いに答える形で同じ意味の言葉が繰り返されていることから、本来は捨てるべきではなかったものを捨ててしまったことを強調するようなニュアンスが伝わる。
「思い出」が「手に余る」とはどういうことか。
“手に余る”は、物事を自分の能力では処理できないとか、単純に量が多すぎるといった意味もあるが、
この場合、やんちゃな子どもに対して“親の手に余る”と言う際の語感に近いのではないだろうか。いずれの意味にしても、手に余る対象は、決して自分にとって悪いものではない。
おそらくあの頃のきれいな思い出を、今は思い出さなくなってしまったことを歌っているのだろう。

【参考】わすれもの(2016)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
この曲は、大人になって子供の頃もっていたものを置き忘れたということだろう。
「あの日のボクはもういないのかな」
「笑い方なんて あの校舎の錆びた下駄箱の中」

◇「泥まみれの今日も 
これが幸せと信じたかった」
前回の記事で大人は汚いというイメージについて述べたが、「泥まみれ」とはつまり、大人になりゆく状態なのだろう。
本当は薄汚れた姿になり下がっているのに、それでも今の状態でいいんだと思い込んでいた。

【参考①】輪廻転生(2017)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
「どれだけ泥が泥を捏ねたって
泥以外作れやしない」
泥まみれの状態では、良いものなんて生まれるはずがないのだ。

【参考②】天罰(2015)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる)
「狭い箱の中 歌を歌って何がしたい?
そうさわかってたんだ
どうせこんな世界でしょう
嫌いだよ 好きなフリしただけ
「汚い大人になるなら ずっと子供のままで
ここで踊っていたいな
今ではもう自分に向ける拍手もない
ほら それでも愛せるの?
本当は、自分の今の姿を好きなはずがないのだ。

11. 君の人生、たいした意味はない

ボクを手放して 拾う明日すらないようだ
もう押し込めない感情で流れていく

◇「ボクを手放して 拾う明日すらないようだ 」
今の自分をなくしたところで、明日も変わらず世界は回っていく。

【参考】プルート(2016)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる)
この曲は「君の人生、たいした意味はないよ」という意味の曲らしい(歌ってみたの本)
「着ぐるみ」で着飾ってうまく取り繕ったところで、実はそんなことに絶対的にこだわらないといけないほど世界にとって自分の存在は重要なわけではないのだ。
「誰もに忘れ去られても
ここで息を殺しても
傾く軸は変わらないまま
君抜きで世界は回るだろう
「誰もに忘れ去られても
ここで息を殺しても
そんな悲劇に値打ちなど無い
もう君の明日に答えはない」

◇「もう押し込めない感情で流れていく」
大人になる中で感情を出せなくなっていたが、
もうそんなことはやめて自分の感情に身をゆだねていく。

【参考】空想世界とオモチャの心臓(2014)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
価値観が『空想世界とオモチャの心臓』まで戻ったような気がする。
「そうずっとちっちゃな頃の思い出は
何も変わらないって笑い掛け
いつか信じた僕の足だけ先へ進む
このまま声も出せずに さよならなんて嫌だ
空想世界でもやられ役で
外れるスポット オモチャの心拍数
ほらドク ドク ドク 
どれだけ明日を信じていたって
僕がいなくても世界が廻るなら
世界が無くても僕は笑うから
それでいいや

この曲の「小さな僕」はだんだん大人になっていくことで、「ちっちゃな頃の思い出」から離れていく。
しかし、自分がいなくても明日の世界は回るし、ならば声を押し殺すこともないんじゃないか。

12. 必ず見つけてあげるよ

放って 振り切って
身勝手に破った 「もういいかい?」
逆剥けのココロに
どうして触れてくれるの

◇「放って 振り切って 身勝手に破いた」
似たニュアンスの言葉を短い言葉から並べることで、だんだん自暴自棄に陥る状況を表していると考えられる。
何を放るのか?(例えば)
→[大切なもの、責任を]放る
何を振り切るのか?(例えば)
→[差し出した手、しがみついているものを]振り切る
何を身勝手に破ったのか?(例えば)
→[約束、誓いを]破る
どの述語も同じような対象が目的語にくると考えられ、おそらくここでは「好きなもの」や「夢」といったものが当てはまるのだろう。
対象を具体的に明示していないことで、何を失っているのかはっきり自覚しないまま、投げやりになっている様子を想起させる。

◇かくれんぼの「もういいかい?」
まふまふさんの『水彩銀河のクロニクル』や『ふたりぼっち』にも、「かくれんぼ」や「見つけてあげる」という歌詞はあるが、あえてAtRの曲を引用する。

【参考】絶対よい子のエトセトラ(2017)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる、まふまふ)
まず、この曲に出てくる「君とボク」について。「君とボクは友だち未満」なのに「君とボクは知り合いだっけ?」という、不思議な距離の関係性。
さらに「絶対よい子のエトセトラ 君に教えてあげたい」という歌詞から、ボクは子どもで、君は子どもじゃない可能性が推測できる。
この二点を踏まえると、おそらくこの曲に出てくるのは、小さな子どもの「ボク」と、「ボク」が成長したあとの「君」。
どちらも自分なので「友達未満」に近しい関係だが、「君」から「ボク」の方を意識してくれないので、「知り合い」とは言えないのかもしれない。「右まわって溺愛中」という歌詞も、時計回りという点で、時間軸の先を行く「君」をあとから「ボク」がおいかけているように見える。

そして「ボク」はこう歌う(このパートが全てひらがななのも幼い子どもの象徴)
きみがせかいのすみっこで
おしつぶされそうなよるには

ボクがかならずみつけてあげるよ

◇「逆剥けのココロに
どうして触れてくれるの」
”逆剥け”は”ささくれ”とも表現するところからの転移。
「ささくれだった心」というのは、感情がすさんでとげとげしくなっている状態を指す。
そのココロに「触れてくる」ではなく、「触れてくれる」と言っていることは見逃せない。
「~てくれる」は「痛い目にあわせてくれるぞ」という不利益な言い方でも使うが、攻撃的な場面での用法であり、「どうして痛い目にあわせてくれるの?」のようにやわらかい疑問形に用いるのは不自然であることから、この曲の「~てくれる」は恩恵的な行為に対する一般的な表現と解釈してよい。
つまり「触れてくれる」というのは、相手の自分に対する優しさを認識している言葉なのだ

【参考】立ち入り禁止(2016)
(作詞作曲・歌:まふまふ)
優しさとココロの痛みのハザマでもがく。
「立ち入り禁止
どこまでも出来損ないのこのボクに
優しさを突き撥ねても
消えない愛を縫い付けてください
痛い痛い痛い ココロが
未だ「心臓」なんて役割を果たすの」
「教えて 何一つ
捨て去ってしまったこのボクに
生を受け 虐げられ
なおも命を止めたくないのだ?
痛い痛い痛い ココロが
優しい声で壊れてしまうから
故に 立ち入り禁止する」

13. そしてもう一度自分に立ち返る

大人になってしまったの
子供のままでいられないの
好きなものも愛せないよ
嫌われ者じゃ愛せないよ

どの身勝手も 優しさも
誰の仕業 誰のため 誰のせい
それはボクだよ そうでしょ
ねえ

◇「好きなものも愛せないよ 
嫌われ者じゃ愛せないよ」
一番では「好きなものも愛せないで 嫌われ者になっていくの」と、やや控えめな言及の仕方だったのに、ここでは、はっきり訴えかけている。

◇「どの身勝手も 優しさも 」
この歌詞は、先ほどの
「放って 振り切って
身勝手に破った 「もういいかい?」
逆剥けのココロに
どうして触れてくれるの」を受けている。

◇「誰の仕業 誰のため 誰のせい
それはボクだよ そうでしょ ねえ」
逆に言うと、何かがあったら誰かによる行為だと思ってたし、自分ではない誰かのためだと思ってたし、問題が起きたときは他者が原因となっていると思っていたということだ。

しかし実際は、空がきれいに見えないのは自分が変わったせいだし、仲間でいられなくなったのは自分が選んだ自分によるものだし、世界はそんなに自分の存在など重要視していなかった。実は、自分の中で全ての事象が回っていたにすぎない。考えてみれば、ぜんぶ自分じゃないかと。

外に意識を向けて、自分を押し殺すようにして世界にすがっていたのに、自分を見失った自分は世界から取り残される。

自分さえよければよい、人の意見を聞かないという意味の”独りよがり”ではなくて、
自分をまっとうに評価できない状態のまま、いうなれば、自分を除外した“ひとり合点”に陥っていたことにようやく気付いたのだ。

◇◇◇◇◇◇◇◇

ある出来事は曲として記録され、皆が共有できる歴史として刻まれる。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」

またいつか夕立ちに見舞われても、
今度はきっと大丈夫。

AY

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