『あさきゆめみし』の「君」とは誰なのか


あさきゆめみし
作詞作曲:まふまふ

元日過ぎてから 指折る年の瀬も
余さず季節を君と紡いで
幾年過ぎただろう
心はずっとあの日でも
大人になったよ 君の分まで

元日から年の瀬、つまり一年の最初から最後まで。
どの季節も君と過ごして、何年経っただろう。
今ではボクの方は「大人になった」らしい。
まふまふさんの曲において、「大人」というのはなりたくない存在であったはずだ。

上記の記事にいくつかあげているが、その中でこの曲をあげたい。
【参考】『セカイシックに少年少女』(2015)
(作詞作曲:まふまふ 歌:そらる、まふまふ)
「ねえ 誰も望んじゃいなくたって
ボクら大人になるんだよ」

このなりたくなかったはずの大人になった「ボク」と、大人にならない「君」が対比される。

長胴の太鼓叩いて 提灯は五日灯った
明年の門を潜って 百八つの鐘を聞いた
行く年の中 手を振っている

大晦日のお祭りの雰囲気の中、年を越え、残りの除夜の鐘を聞く。
手を振るということは、ここでお別れをする相手がいる。「君」だ。

あさきゆめみし 君を想う
君を失くして 君を強請る
朝日昇るは明くる年
君を置き去りにして

「あさきゆめみし」とは、『いろは歌』の一節。
いろは歌はこの世の無常観に基づいている。
美しいものは永遠には続かない。
この曲も、そんな儚い夢を歌っている。
ボクは別れてもなお、君をあきらめきれない想いをかかえ、
朝目覚めると、君を置いたまま、自分だけ新年を迎えていた。

こんな叶わないことを詠う
ボクを笑ってくれるかな
浅く眠れる枕元に
君を探しに行きたい

「歌う」ではなく、「詠う」を選んでいることから、ある思いを歌詞で表しているというニュアンスが強い。
自分で先に行っておいて、今さら君を求めることはできない、
そんなことは分かっているけど、その気持ちを歌にしているボクをせめて笑ってほしい。

浴衣に粧しして 見知った神社まで
橙色の連なる年の瀬
幾年過ぎようと
見惚れてしまったあの日から
探してしまうだろう 夢の中まで

今年もいつも通りの賑やかな年の瀬。
何年過ぎても、一度魅かれてしまったからには、夢の中まで、今はいない君の姿を探してしまう。

もういくつ寝て待とうと もういくつ寝て待とうと
君行きの未来なら 全部 あの日に乗り換えていた
行く年の中 手を振っている

「もういくつ寝るとお正月~」の唄を想起させる節。
年越しをまもなく迎えようとしているわけだ。
「君行きの未来なら 全部 あの日に乗り換えていた」という歌詞で、次の曲が思い出される。
【参考】『快晴のバスに乗る』(2017)
「次の最終便へ乗り込んで 君のいる世界へ」
「君のいない今日なんて ボクは乗り逃してみたいよ」

しかし、待ち望んだところで、「君行きの未来」は今更やってくることはない。また君をおいて、年をまたぐ。

あさきゆめみし 君笑う
時の止まった花氷
瞼の裏に映写して
何時何時何時迄も

夢の中で、君が笑っている。
「花氷」とは、中に花をいれて凍らせた氷。
美しいままを保っている状態。
そんなきれいな思い出が、ずっと脳裏に焼き付いている。

こんな叶わないことを詠う
ボクを笑ってくれるかな
浅く眠れる枕元に
君を探しに行きたい
あさきゆめみし ゑひもせす
叶わぬ今日を知ろうとも
するりと抜ける指先に
頬を濡らすばかり

『いろは歌』の最後の結びを歌う。
夢にもう酔ったりしない。
今はもう叶わぬ望みであることはわかっている。
それでも、自分の抱く幻想に思いをはせては、寂しく思う。

心ひとつが立ち止まり
未だ越せずにいるボクを
君が叱ってくれる日まで
君を探しに行きたい

浅く眠れる枕元に
君を探しに行きたい

自分は先に行かないといけないのに、心が引っかかっている。
そんななさけない自分のことを「君」に叱ってほしい。後押ししてほしい。

ボクはそんな浅い夢を見ている





「君」が誰のことをさすのか、この曲を聞く前から自分のなかで答えは一人に決まってたんだけど、わたしの知らない誰かかもしれない。

アルバムの最後をしめくくるにふさわしいほどの大きな存在がほかにもいる可能性はあるのだろうか。



そらるさんはどう思いますか。



◇◇◇◇◇



こんな考えにふける夢を見ました。

夢です。

夢。


AY


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