言霊ってあると思うんですよね

人間は自分の知っている言葉以上の思考はできない。知らない概念について思いを馳せることはできない。だから言葉を知ると人生の見方も豊かになる。

ーそんな風に自分は思う。

「○○離れ」という表現が苦手

「○○離れ」ってよく聞くけど、自分自身が批判されてるわけではないにせよ、なんとなくモヤモヤする。

「テレビ最近あんまり見ないんだよね」って聞く分には、そっかそっかってさらりと流せるけど、「テレビ最近あんまり見ないんだよ」を10人集めて、「テレビ離れ」と称されると、とたんに寂しい現象のように響く。

ようはレッテル貼りが苦手なのかもしれない。

「テレビ見ない人も多い」という言葉はまだいい。なぜなら、「テレビを見ている人」の存在を排除していないから。

レッテル貼りをして、特定の集まりを囲ってしまった場合、境界線からはみ出す者が出てくる。仲間はずれだ。

誰かを仲間はずれにしている自覚もないし、逆に気づかないうちに仲間はずれにされている事実を突きつけられたくはない。

言葉に対する過剰反応?そうかな。
「テレビ離れ」という言葉にテレビを見る人、テレビを愛する人の存在は入ってない。それって使い手の意識の反映ではないのだろうか。

親でも殺されたんか

自分は政治を語らない。なぜなら知識が薄いから。
調べ尽くして、ここがよくない、ここはこうするべきだ、と建設的な意見を述べられるのであればいいのだが、そうできないうちは選挙で投票するにとどまり、あとは政治家さんにお願いしている。

ただ若いうちから、関心が高い人もいる。声をあげる。
問題意識があるというのはいいことだ。

だけど、口が悪い人もいることにびっくりする。
親でも殺されたんかと思うくらい、口が悪い。

政治が悪い、だから政治家も悪人、と決めつけるのは尚早ではないかと。

メディアが浮き彫りにするのなんて一部にすぎない。
もちろん問題もあるかもしれない。それは改善されるべき。

だけど、直接話したこともなければ、議論に参加したこともないのに、その人自体を悪魔のように罵倒するのは、やりすぎではないかと感じてしまう。

悪いことをする人はいても、悪い人はいない。

歴史は作られるもの

ある出来事が起きたとき、その記述の仕方は一様ではない。

記録というのは出来事を認知したその人のフィルターを通して出てくる。
記録は出来事と全く同じ情報にはならない。
あるいは媒体にも左右される。絵で描くか言葉にするか、映像にするにしてもどういう角度で切り取るか、それによって印象は変わる。

だから、「自分の目で見て確かめる」ということをやってみる。

でもこの世のあらゆる出来事を確かめて回ってたら1%も記録できずに寿命が来るだろう。

だから、実際に見ること自体が必要なのではなく、
ある程度自分の目で見た現実と、その記録にはどういうギャップがあるのかを理解できるようにするのが大事なことなのだろうと思う。

フィルターは悪いことではない。自分にもある。

歴史というのは記録によって作られるもの。
「○○事件」と名付けたり、流行り廃りをピックアップしたり、重要な人物を登場させたり…。

自分の若かりし頃を黒歴史と呼ぶこともできるし、過去の栄光にすがることもできる。
人から見たら華やかに見えても実際は苦悩の時期だったということもありうる。

例えそこに記録がなかったとしても、いまここに自分が生きていることが歴史があったことを証明する。

だけど、何にも背景がなくこの世界に自分がポツンとたっているというのは、なんとも心許ない。
だから記録を求める、あるいは背景のある人との繋がりを求める。
自分の存在を外からのフィルターを通して実感する。

そして自分の歴史の薄さにがっかりしたりする。
でももしかすると本当は記述力不足なだけかもしれない。

人間の厚みは本来等しいもので、記録化されない部分の方が大きいにすぎない。言及されない、言葉にならない部分がある。

◇◇◇◇◇

ポツポツと苦手なことを書いてみたが、
一貫して言えるのは、“可能性”を忘れないということだろう。
良いものである可能性を。

自分が知覚できる範囲において人生は展開される。

相手をいい人として扱えばいい人だし、
ある出来事をいい経験だと思えばいい経験になる。

いたってシンプルだ。

その一つの足掛かりとなるのが言葉だと思う。

よい言葉を使えるようになりたい。

AY

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