疲弊したオタクの末路



こういうタイトルにしたけど、
自分は、厳密にはオタクではない、と思う。

どのジャンルでも永遠のミーハーにわかモンスターだと思う。

でもそういうことを言い出すと本題から外れてしまうからやめよう。


この疲弊した現代社会で、オタクというのは最後の幸せを見つけたような生き物だと思う。

あらゆることがうまくいかないとしても、
日常生活がどんなに惨めだとしても、
それとは無関係に喜べるものがある。

それは救いの対象だ。

でも対価なく楽しめるものなどこの世に存在しない。

お金、時間、労力……自分のもちうる札と引き換えに喜びを得ているに過ぎない。

だから限界がある。

たいてい自分の手札より、求めるものの方が上回っている。
だから幸せなのだ。
逆に自分に手札が有り余っている人は、物足りないと感じるかもしれない。


自分はオタクの暮らしが人生の最適解だとは思ってない。

自分は結婚して子供を産んでそこで家庭のあれこれを悩むのが夢だ。
だから自分にとっては今はどこか不完全な生きざまだと思っている。

ただ、人生をやめてしまうくらいなら、
不完全でもいいから、人生を続けられる道を選んだ方がいいのかなと思う。

人生が辛くて死にたいという苦しみよりも、
ああ推しに会えなくて辛いと悩んでいたい。

がしかし、会えなくて辛い→やっぱり死にたいとなるからめんどくさい

結局そこに帰結するのかと、つっこみたい。

でも出発点が違うのが大事だ。

人生そのものをやり直すことはなかなか難しい。

でもオタクとしての生き方は変えやすい。
例えばシフトを変えてみたり、引っ越してみたりするだけで、もっとイベントに行きやすくなるかもしれない。

その変化によって、また幸せになれるかもしれない。

それはとても救いのあることだ。

とにかく今自分は、疲れているので、文章を書いている。

自分は心が子どものまま大人になってしまったので、
あんまり臨機応変に仮面を被れない

楽しいときは楽しい
疲れたときは疲れた

という顔をする。

いまは10歳くらい老けてしまった顔をしている。


そんな疲弊したオタクはこれからどこに向かうのか。

疲れたという理由でそこを離れることを覚えるべきじゃないと思っている。

だって、人生に疲れたという理由で、自殺してはいけないから。


余談だが、なんで自殺してはいけないのか。

命が大切だからとか、生きたくても生きられない人がいるからということもあるだろうが、
それはそもそも人間が三次元的な存在ではなくて、“四次元的”な存在だから。

昨日の自分と今日の自分は物質として全く同じではない。

時間の流れとともに変化する概念だ。
しかも自分が生まれたときから始まってるものではなく、
何百年、何千年もまえから脈々と受け継がれた命の結実として今ここで息をしている。

そういう時間の流れの中で、今たまたま目に見える実体を伴って生きているにすぎない。

そこから無理やり実体だけを切り離してしまうと、時空が歪み、自分という概念が崩壊する。

命は最後まで全うして、直接的にでも間接的にでも、未来へと命のバトンを繋いでいくべき。

自分の命は自分のものではない。
世界がくれた命は、最後は世界に返さないといけない。
そうやって命の営みは紡がれてきた。

それが自然の摂理なんだと思う。

こんなことを話しても自殺志願者を止められるわけがない。

でも少なくともわたしはそう思うから、死にたさを抱えたままで生きている。

世界を壊したいとは思っていない。




話を戻すと、
疲れたという理由で、やめるのはよくない。

やめるときは、何かのスタートであった方がいい。

停滞は後退だから。

次のお仕事が決まったとか、ほかにやるべきことがあるから会社をやめる。
学校をやめて、ほかの夢を目指してがんばるとか。

何もかも手放したとき、びっくりするほど世界においていかれる。
自分が何かをやめたところで、地球は変わらず回っているということだ。


ただ、疲れたからって、必ずしも何かを始めなくてもいい。

本当は疲れただけで、やめたいと思ってないなら、
むしろもう一度その対象を愛してみたらいい

人の幸せは、愛されることではなく、愛することにあると思っている。

もう一度好きを確かめてみるだけで、幸せになれるかもしれない。

距離をおいてみて、うまくいくことがあるとはあまり思っていない。

そういうときほど、自分の位置から対象のことを見つめてみた方がいい


だから、疲れたときほど、愛を。


◇◇◇◇◇

人がなにを考えてるか、人はどのくらい興味があるのだろうか。


やがて消えてしまう心の断片をここに置いていく。

AY

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