みんなでごっこ遊びをしよう
子供のころに楽しいと思った遊びは、大人になっても楽しいはず。
お姫様になりたいし、ヒーローになりたい。
おままごとがしたいし、鬼ごっこがしたいし、砂場でお山を作りたい。
子供のころのわたしは、トイザらスのCMの歌を聞いては、切ない気持ちになっていた。
子供でいた~い
ずっと、トイザらズキッズ
大好きなおもちゃに囲まれて~
大人になんか~なりたくない
僕らはトイザらズキッズ
おもちゃで遊べないなんて、大人になるのは寂しいことだと思っていた。
がしかし、大人になると子供心なんて忘れてしまうと思っていたけど、意外とそのままわたしは大人になってしまった気がする。大人も楽しい。
別におもちゃに囲まれて生きているわけではない。
でも、わたしはあのころ楽しかったと思えた遊びは今でも楽しいと思える。
遊びのレベルがあがったと思う。楽しさのレベルも高い。最高。
特に、ごっこ遊びが楽しい。
ごっこ遊び
「こどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである」(Wikipedia)
カイヨワ『遊びと人間』によると、人間の遊びは四つに類型されるらしい。
競争、偶然、模倣、めまいだ。競争はかけっこ始め、わかりやすい。
偶然は、じゃんけんや賭けだ。模倣がごっこ遊び。めまいは遊具だ。
自分は、この四つの中で「模倣」が好きだと思う。
勝負とか賭け事はけっこう苦手だし、遊園地で頻繁に遊ぶ体力がないが、模倣は毎日だってできる。
現代は、個性とか、自分探しとか、アイデンティティーとか、やたらと自分というのが何者であるかと向き合いたがる。
既存の〇〇らしさを疑い、自分らしさを追求する。
型にはまらない。先入観に染まらない。
…それって、つまらなくないか。みんな真面目である。
何かを模倣した方が楽しいに決まっている。こどもの頃から知っている。
自分の中で答えを苦しんで見つけようとするよりも、自分の外の世界に理想を見つけて、それを目指した方がいい。なりきってみた方が楽しい。
女の子らしい恰好が好き、でいいと思う。
ピンクが女の子なんて誰が決めたの?というツッコミが入るとやりづらい。
”男の子は泣かないの”ごっこもダメ。
ああ、楽しいことがなくなっていく。
肩書なんていらない、俺は俺さ(ドヤ顔)という意識の高い人も多いけど、
なんだ、君もか。君とはごっこ遊びはできないのか…と思ってしまう。
我々はある種の概念に過ぎない
自分という実体が存在すると思い込んでいるから、自分らしさがあると信じているのだろう。
でも、そもそも自分って何?この肉体?
痛くない例えにするが、例えば、切った髪や爪は自分か。
自分だったもので、もう自分ではなくなる。
とすると、何が自分の本体なのか。
脳?心臓?
医療の現場はそんな命の倫理の問題と向き合っている。
自分がここに確かに存在しているというのは、肉体が証明するんじゃない。
人間はただの物質じゃない。概念に近い。
概念というのは、具体的な対象物に通ずるような大まかな意味内容を指す。
例えば、「政治」とか「経済」とか「社会」とか。
その語を聞いた時、イコールで直接的に結びつく個体物は思い浮かばないが、何らかの具体的な事物や世界をイメージできるもの。
…そう、ようは、概念とはなんだか、ふわっとしているのだ。
人間も実はそういう不確かな存在だ。
”自分”という人間の輪郭を明確に形どるためには、具体的なものをたくさんとりこんでおくと強い。
肩書きはあった方がいい。型にハマっていると、自分を見失わない。
何ももたずに、自分とは何者なのかと向き合うことは、
愛とは何か、と同じくらい難しい哲学のように思う。
気が滅入ってしまうのも無理はない。
子供のころは、世界の仕組みのほとんどがわからない。
でも、何かに全力でなりきっていた時代。
大人になっても、この世の神秘のすべてを理解することはできない。
そもそも、すべてを解明しなければならないということもない。
本当の自分を探す必要もない。
生まれたときは何者でもないのだから、自分が生まれた時代と環境の中でなることができる、こうありたいというモノになってみたらいい。
偶然、あるいは願わずになってしまう場合もある。
学生になり、会社員になる。
主婦になり、母になる。
先生、医者、警察官、看護師。
全てをごっこ遊びに還元できるわけではないけど、
ただ”ごっこ遊びをしていただけだから”という言い分で引退してもいい。
何をやっていても、自分=〇〇にはならない。
アイドルが、過去を暴露する動画。
でんぱ組inc. 『W.W.D』
メンバーには、アイドル像をこわすような自分の辛い過去を歌うことに葛藤もあったようだ。
でも、誰もが知っている。
彼女たちがアイドルである前に人間であることを。
人間という、不安定で不確かな存在で、それでいてわたしたちと変わらないことを。
本来は同じ構造をした人間が、一方はアイドルになり、そして一方はドルヲタになる。全力で。だから彼女と自分たちは同じなんて野暮なことは言わない(このnoteは秘密にしてほしい)
誰しも”本当の自分”というモノが必ずあって、人間が確かな存在であるかのような風潮の中で、
自分という人間を掴めないことへの不安を抱えている人も多い現代。
人間は、誤差の範囲でしか変わらない。
みんな寝ないと死ぬし、お腹を壊すと辛い。だいたい一緒だ。
だからこそ、みんな別々のものを演じるのだ。模倣するのだ。
自然と役割を与えられ、規範を与えられた時代は過ぎてしまい、裸のまま一人で大宇宙に放り出された状態。
息をするために、地に足をつけるために、何かになってみる。
みんなが知っているモノになると、たくさんの人とごっこ遊びができる。
店員さんになれば、お客さんとお店ごっこができる。
たくさんの人と遊べるのは楽しい。
もしつまらなければ、違うごっこに変えた方がいいかもしれない。
こういうごっこはあまり楽しめないと思うなら、やめてもいい。
”ごっこ”と呼ぶのは、あらゆる所為は人類が連綿と継承してきた模倣にすぎない、絶対的真実ではないという意味だ。
何かになったからって、そこにとらわれなくてもいい。
ただ、やるなら全力のほうが楽しい。本気で。
生半可な気持ちでやっては面白くない。
自由に遊ぼう人類。
◇◇◇◇◇◇
ゆとり教育なので、こんな生ぬるい話をしてしまうのかもしれない。
ゆとり教育のせいにするのはよくないか。
とにかく、人生に基本的に緊張感をもっていない。
ただ、現代人って辛そうにしか見えないけど、
幸せになるのはもっと簡単だったはず。
子供のころは、簡単に楽しい気持ちになっていたから。
人生はお金や才能、美貌だけじゃ満たされない。
人生に必要なのは、きっとほんの少しの遊び心だ。
AY
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?