ヤンキーAとヤンキーB
ヤンキーAとヤンキーBということを考えている。ヤンキーAもヤンキーBも私の造語だ。だから喋っても伝わるわけではない。でも私は、ヤンキーAとヤンキーBについて考えている。
ヤンキーというのは定義が難しい(※1)のだけれど、ここでは「表面的には男性的で、母性原理に基づいている人間」くらいの感じ。西洋には見られない、日本特有の性格のことを指す。曖昧さの残る定義だけれど、あくまで素描だと思って欲しい。
*
で、ヤンキーAとヤンキーBというのはどういう人を想定しているのか。まずはヤンキーAから。
ヤンキーAというのは普通のヤンキーのことを指している。日本に住んでいれば普通にイメージできるはず。
「気合い」「根性」という原理で動く点が、理性や主義で動く男性原理と異なり、母性的である。
オリジナルの考えは、ヤンキーBのほう。伝わってくれると嬉しいけれど…。
なんとなくイメージは伝わっただろうか。文化的な感度が高くて、偏差値も高めで、メンヘラが入っている感じ。というか、大学生の頃の私そのもの…
*
で、このヤンキーA、ヤンキーBという定義で考えていたのは、「動員」の話だ。
いまなんとなく日本では、与党が無知な大衆を煽って政権を守っている、という見方が強いように感じるけれど、煽られてると思ってない人間(なおかつ他の何かに詳しい、頭のいい人間)ほど、感情的な意見を言っていることが多い。「維新オェ〜🤮」みたいな。
特に政治に限っていえば、地頭が良いだけでは流されないのは至難の業で、やっぱり時間をかけて政治学の文脈を理解しなければ、大なり小なり偏った信念を持ちがちのような気がする。自分も含め。気をつけよう。
とりあえず今日はこんな感じで仮の結論を措いておくけれど、ヤンキーAとヤンキーBという概念は、もうちょっと使えるかもしれない。またこのテーマは書くかも。
(※1)斎藤環「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」では、ヤンキーは定義できないもの、特徴のみが存在する空洞的なものとして扱われていたような気がする。全体としてその議論を参照している。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?