『カリスマ』(黒沢清監督)

「世界の法則を回復せよ」という、謎めいた言葉で物語は始まる。人質を抱えた犯人から、説得を試みる刑事役の役所広司に、言葉の書かれたメモが渡される。あっけなく、人質と犯人はともに死に、役所広司は謹慎のような形で休暇を命じられ、森にやってくる。そして、森に生える一本の木「カリスマ」を巡る騒動に巻き込まれていく。

今更「カリスマ」を見た。大学時代あんなに時間があったのだから、もっと映画を見ておけばよかったと後悔している。日常的に映画を見る家庭に生まれたかった。映画を見るのに気構えてしまうし、集中力が続かない。恥ずかしいなぁと思いながら、1本ずつちまちまと見ている。

作品には二者択一という主題がある。「犯人」と「人質」、「カリスマ」と「森」、2本目の「カリスマ」と「森」の関係を加えると、二者択一の関係は3度反復されることになる。両者の言い分にはもっともなのだが、運命論的に裁かなけらばならない状況に置かれることになる。

あのラストシーンの衝撃を思い返すたび(このくらいのネタバレを避ける配慮はある)、役所広司がいつカリスマになったのか、ということを考えてしまう。カリスマは伝染るものなのか、継承されるものなのか。もし作品内に因果関係があったのだとしても、「憑かれるもの」と感じてしまうのは、単なる読み違えなのだろうか。

翻って、生活に目を落とす。会社と家を往復して、少しばかりの思い出をくちゃくちゃ反芻して、だらしなく疲れている。これは世界の法則なのだろうか。法則の失われた世界はとても楽しかった。役所広司のすべりだいはすごく幸福で、なにがなくとも、それだけで充分なのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?