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中学時代の挑戦:富士山への自転車旅行記

はじめに

中学三年。野球部の最後の試合が終わり、ユニフォームを脱いだ。引退である。皆、三年間の充実した日々を、最高の仲間と共に送れたことを思い起こし、涙した。引退してからは、高校受験のための勉強をしなければならない。しかし、そんなことは後からでも、取り返せる。今、この時間になにか大きなことをやってみたい。そんな思いをもった、野球部員のうち、私を含めた6名が自転車で富士山へ行くことを決めた。

当時、マウンテン・バイクが一つのブームとなっており、私達にも少なからず影響を与えた。富士山に行く前までに、日帰りで自転車旅行をしたことは何度かあった。古河~栃木県の大平山~古河、古河~東京都の上野~東京都の柴又~千葉県柏~古河、古河~埼玉県神泉~群馬県鬼石といった感じである。

しかし、やはり日本一といわれる富士山まで行けるかどうか挑戦してみたかった。だが、問題もあった。中学生だけで、4日間も野宿で、しかも移動手段は自転車となると、親も当然心配する。なぜか、学校の先生までもがこの無謀な計画を嗅ぎ付け、大きな問題となった。そして、地元のステーキ宮で6名の私達と、その親全員、そして私の担任とで話し合いを持つことになった。当初、私はこの計画は中止しろと言われるものだと思っていたのだが、意外や意外。その先生は、私たちのことを理解してくれたのである。今の若者には、このような冒険的な経験が乏しいと言った。先生は、教師として生徒に危険なことをさせないように指導するという立場と、教師を離れていろんな経験をしてもらいたいという立場の2つをもっていたのは間違えない。しかし、先生が私達にGOサインを出してくれたことには、感謝している。それは、今でもその旅が私達にとってかけがえのない良き思い出として残っているからである。(まあ、GOサインが出なくても、きっと富士山に行っていたとは思うが。)

1993/8/6

富士山への旅出発の日である。前日に自転車の入念な整備、またメーターなんかも装備した。ありとあらゆる状況を想定し、工具なんかも揃えておいた。食料・着替えなどを何度も確認し、家を出たのが早朝の4時位であった。まず、埼玉県に出るわけだが、そっち方面に行くのに一番遠い家だったのが私の家だったので、私の家から、次に遠い家の人に行き、またその次に遠い家の人を迎えに行くという感じで6人のメンバー全員が揃った。なんだか、雲行きがあやしかったので不安であったが、順調に国道四号線を進んでいった。初めての休憩ポイントが埼玉県の杉戸町にあるセブンイレブンであった。朝の、5時半頃の事である。まあ、この辺ぐらいなら、まだ部活を引退したばかりということもあり、体力的には全然問題なかった。そしてさらにどんどん進んでいき、埼玉県の春日部で国道四号線から国道十六号線に乗り換えた。ちなみに、それぞれ6人には役割分担があり、テント係やコンロ係などがあった。私の場合は、地図係だったので、出発前にどういったらいいのかという事を何度も何度も考えた。そして、途中、埼玉県大宮市によった。実を言うと、野球部で1年の時に、大宮に転校してしまった人がいたのである。その人とは、私個人としても小学校から一緒だったし、家も近かったので仲が良かった。(もちろん、大学生となった今でも交流はある。)その人の家に寄ったのである。久し振りに色々と話をし、その人のお父さんにはラーメンをおごってもらった。「今から、一緒に自転車で富士山行こうぜ!!」と誘ってみたが、当然のごとく断られた。そして、その家を後にし、後は国道16号をひたすら進んでいった。すると、不吉な予感が当たった。雨が降ってきたのである。しかも、土砂降り。一応、雨具は持ってきてあったので、良かったが、かなり辛かった。この土砂降りの中、友達のマウンテンバイクのチェーンがおかしくなり、それを直すのに結構時間がかかった。途中、どっかのアパートに備え付けてあったコインランドリ-の乾燥機で衣服を乾かした。そして、夜になってきたので、その日の寝床を探した。その結果、埼玉県の狭山市になった。場所は、川にかかっている橋の下である。テントを張って、寝ることにした。しかし、そのテントは4人用のものであった。6人がぎゅうぎゅうになって一夜を明かしたのである。

1993/8/7

やはり、朝早く起きてすぐさま出発である。埼玉県の途中、米軍基地の脇を通ったり、特に八王子近くになってからであるが、なんとも言えない清流の美しい風景に出会った。私達は、例えば東京都の福生市に突入すると、皆で「福生だ---!!」と叫んでおり、周りから見たらかなりの異常者であった事は否定できない。八王子あたりで、今度は国道20号線に乗り換える。あとはずっとまっすぐ行くわけであるが、これがかなりの山道できつかった。特に高尾山や、相模湖付近では傾斜が激しく、マウンテンバイクの18段あるうちの一番軽いギアを使ってもこげないくらいであった。(ま、前日の疲れが残っているという事もあるが)だから、そのような場所では手押しで進んだのである。逆に下り坂の時には、かなりスピードがでた。最高時速60キロを記録した。あの、スリリングさがたまらない。途中、何度か休憩を取りながら、やっとの事で富士山に到着した。そこで、今日の寝床はどこにするかなと考えた結果、河口湖の砂浜に決めた。テントを張り、荷物を置いてしばしの休憩を取った。本当は5日間の予定で、富士山の頂上まで行くつもりだったのだが、家に電話してみると、富士山には強烈な雷警報が出ていた。だから、富士山を登るのは断念した。夜は、皆、野球部だったという事もあり、河口湖の近くにあるバッティングセンタ-で汗を流した。そして、近くの旅館で風呂だけ入れさせてもらった。飯はというと、河口湖大橋入り口の近くにある、すかいらーくで食べた。そして、夜寝たのだが、あまりの疲労で私の足がつった記憶がある。かなり、辛かった。

1993/8/8

朝の5時半頃に皆目を覚まし、河口湖でボートに乗った。朝のすがすがしい中で、湖の上をボートで漕いでいると実に気持がいい。ボートを漕ぎ終えると、朝食を取らなければならない。昨日のすかいらーくの隣にある、セブンイレブンで弁当とかを買って河口湖の砂浜で食べた。この旅の食料といえば、やはりコンビニ弁当が多かった。そして、飯を終えると、つり竿を一本レンタルし、皆で交代で釣りをした。ただ、あまり釣れなかった。そして、今日からは、古河に向って帰らなければならない。河口湖から富士吉田市に出るまでがかなりの急な坂道で、この時も時速60キロ出た。言っておくが、自転車での時速60キロというのは、かなりのスピードである。ハンドル操作を誤ったりでもしたら、大きな事故に繋がりかねない。でも、その時は、自転車のための道なんてなく、車道を車と共に走っていた。今思うと、かなり危険であったと思われる。そして、行きに使った道と同じルートで帰ることにした。やはり相模湖・高尾山付近はかなりの急勾配で押して歩いたりもした。結局、この日の寝床も、一日目と同じ狭山市の橋の下となった。しかし、一日目と決定的に違うのは、なぜか8月であるにもかかわらず、その橋のすぐ近くで、七夕祭りをやっていた事である。こっちとしては、いい迷惑であった。でも、そんなこと言っておきつつも、私達もその七夕祭りに参加した。いろとりどりの飾りがきれいだった事を今でも鮮明に覚えている。出店で買ったお好み焼きをその日の夕飯とした。そして、就寝である。ところが、私は寝ていて気づかなかったのであるが、その日の夜、警察が来て、「許可証取ってあるのか?」と言われたらしい。友達が「はい。取ってあります。」と言ったら、丸く収まったと言う。許可証なんて取ってあるわけないのに。

1993/8/9

もうあとは、古河にむかうのみである。体力的にも皆ピークに達していたと思うが、最後の力を振り絞ってこぎつづけた。この日は、釣りをしようということになって、途中、上洲屋で1000円くらいの安いつり竿を皆購入して、どこだか忘れたが、荒川にかかっている上江橋というところで釣りをした。そこで、友達が信じられない行動に出た。その友達は、ブルーギル(確か?)という魚を釣ったのであるが、それを焼いて食べてしまったのである。その魚は、食用ではないのだ。友達はそれを知っていながら「白身だ」と言いつつ食べてしまった。もちろん私は食べていないが。その後は、古河を目指し、自転車をひたすらこぎつづけた。途中、おじさんとかに、「どこからきたの?頑張ってね。」とか言われ、嬉しかった。そして、古河に着き、皆それぞれの家に帰った。私の家が一番遠いので、一番最後のゴールインということになった。家に帰ってからは、風呂に入り、すぐさま寝てしまった。ものすごく足が痛かったのだが、それはそれでとても良い思い出になったと思う。

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