「幸/不幸のバランスをとらないといけない」という認知エラー
人間は見たいものしか見ず、直感的に「快」を選択するようになっている。VRゴーグルをつけて都合の良い世界を見ている状態。脳は不快を避けたいから、現状のまま留まろうとする。だから不快を意図的に取りに行かないと気づきは生まれない。
「自分の中に認知エラーが何個あるか探すゲームだと思うといいよ」という学長のコメント通りにスプレッドシートに認知エラーと思われるものを書き出して、それに関わるエピソードを紐付けた。アイデンティティだと思っていたものが破壊され、そこから紐づく認知エラーがもりもり出てきて、そこそこ暗い(ような気がする)記事です。
学生時代の私は「バレエが好き」という気持ちに支えられていたはずだった。小学校までは確かにそうで、とにかくトウシューズを履きたかったし、純粋に上達すること、大事な役をもらえることがうれしくて毎日自宅でも練習していた。
ただ思春期女子によくある人間関係トラブルをきっかけに、スタジオは自分の逃げ場に変化した。 だんだん後者の意味合いが強くなって、 上手くなることよりもスタジオに頻繁に通う(学校のことを考えなくていい状態をつくる/結果的に上手くはなるのだけど)方が目的として大きく、おそらく依存の対象になっていた。
…と捉えると当時の気持ちとかなり合致するところがある。バレエは私のアイデンティティではなくて依存先だった。
バレエという依存先を胸に秘めたままの私は大学でモダンダンスを専攻するが、進学のタイミングで認知エラーが出来上がる。
大して検討せず母親が教えてくれた大学&学部に進んだ(きっと母親は今も踊りたいだろう、と思ってくれていたと思う)
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まあ楽しそうだし内部推薦で楽そうだし、というのが本音の半分
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でも半分の自分が「あれだけバレエが好きだったのだから、本当は自分が必死で探して親を説得するべきだった(その方が美しい)と思っていた
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(結果が良かったとしても)考えなしに人の勧めに乗ってしまったこと、好きなものにこだわりきれなかったことを後悔している
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どれだけハードな選択をしても「また楽な方法を選択した」と考えてしまう認知エラーいっちょ上がり
過去人に話せなかったエピソード。ずっと「バレエが好きだったから」「踊りたかったから」と進学の理由を説明してきた。すごく自分を守っていたと思う。出身大学への進学は全く後悔していないしむしろ大正解だったと思っているけど、正直どこでも良かった。道理が通ってそうで、人と比べられないポジションだったら、なんでも良かった。
ちなみに「その方が美しい」の原点には、親に止められてもバレエを習いたくてしょうがなくて、自分で教室を探してきたエピソードがある。親もすごく印象的だったようで、もらった手紙にもこの時のことが書いてあった。
あの時と同じムーブをかますのが理想的、という浅はかさが垣間見える。
ここから「楽しい」の認知も拗れてくる。
楽しいことしかしたくないから基本的な選択基準は「楽しいかどうか」。でもそれを言葉にすることには抵抗がある。自分だけ楽しいのは良くないと思うから。人には「楽しい方がいいじゃん」と言えるのに自分に対しては許可が出せていない。
進学先が「好きなことの権化」みたいな学部だったから、「良いよね、好きなことがあって」「好きなことばっかりやれてるよね」「今が一番楽しそうだよね」という言葉をかけられることが多かった。
もちろん学費は高かったし、弟は返済不要の奨学金をゲットした上に国立大学に進学するし、私は父親と弟の犠牲のもとに好きなこと・楽しいことを「させてもらっている」という罪悪感があった。(多分弟はいいよと言われても私の大学には進まなかったと思う)
ここから「楽しいことをするにはそれ相応の対価(=犠牲)を払う必要がある」という認知エラーが生まれる。人生の中でハードシングスが起きた時も大体「これで帳尻が合う」と思っていた。うーん、拗れている。
多分私は「不幸があること」に安心している。バランスが取れているような気がしている。
え、「100%楽しい」じゃダメなん自分???????????
バレエに関する認知エラーとエピソードの話はここまで。
ただこの思考回路さえも何かにコントロールされているのではないかという不安がある。 どこまで行けば「そうである」と自分の中で確定したらいいのか。 一旦確定していいものなのか。これは誰に許可を求めているのか。
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