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No144.近・現代の渡来人/禹長春博士/韓国近代農業の父/キムチの恩人

一昨年、仕事で京都にある老舗種苗会社の会長の自伝を制作する際、その方のライフヒストリーを聞き書きする過程で、〈韓国近代農業の父〉と呼ばれた禹長春(ウ・チャンチュン)博士の話が出て、禹博士にまつわるいろいろなエピソードを伺った。このお話をしたい。

昨年9月に投稿した文章に加筆する。

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禹長春の父は、乙未事変(朝鮮国王王妃・閔妃暗殺事件)に参加した軍人・禹範善(ウ・ポムソン)である。

禹範善が日本に亡命し日本人女性と結婚、その日本で生まれたのが禹長春で、育ったのは広島県呉市である。父の禹範善は閔妃の暗殺に加担したとして、禹長春が6歳の時に、かつて閔妃に仕えていた者に殺された。

禹長春は、広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業後、東京帝国大学農科大学(農学部)実科に進学した。

卒業後は農林省に就職し、朝顔の遺伝研究などに没頭する。1924年、日本人女性と結婚。当時の状況から父の恩人で朝鮮人亡命者を支援していた須永家に養子に入った。

生まれてくる子供達は日本名を名乗らせ、日本人として育てる決意をした。自身の日本名は須永長春である。

1926年、埼玉県鴻巣試験地(鴻巣市)に転任し、ナタネの研究を主に行っていた。

この頃、禹長春が発見したペチュニア(つくばあさがお)の全八重の作出法(完全八重咲き理論)を基に、坂田商会(現サカタのタネ)創業者・坂田武雄がこれを事業化し会社を拡大させた。

また1936年には、論文「種の合成」で東京帝国大学より、朝鮮人初の農学博士号を取得する。

「種の合成」は「禹長春のトライアングル」とも呼ばれ、1950~60年代には細胞遺伝学を学習する学生にとっての必須で、学生たちは禹長春の理論を必死に学んだという。

また、禹長春が研究に用いたアブラナ科の植物は欧米で人気が高く、数々の新種開発に応用されたため世界に知られるようになった。

今日、日本人が食するキャベツや白菜などアブラナ科の野菜は、禹長春が築いた土台を基に品種改良が進められたものだ。

その後、高等官である技師の道が遠のく。日本籍に入ってはいたが、姓も禹のままでもあり出世は難しかったようだ。

農学博士となっても技手止まりで、1937年同社を退社。京都のタキイ種苗の瀧井治三郎が京都府乙訓郡(現長岡京市)に新設した研究農場の場長に迎えられ、京都に移った。

ここでは十字花科(アブラナ科)植物の育成を主に、それに伴う花卉類、蔬菜(青物野菜)の育種、植物ホルモンなどの研究で自家不和合性現象や雑種強勢のメカニズム解明に打ち込んだ。

そして1945年、終戦の後、同社を退社する。

1948年、大韓民国の樹立により、韓国で禹長春の呼び寄せ運動が起こった。

当時の韓国は政治的大混乱や、地方から都市への人口流入などの問題で食糧が不足、農家は種子、肥料などが足りず、甚大な被害を受けていた。

この頃、韓国は国民の80%が農業に従事していた。

日本の統治時代の韓国では、米や麦など日本人の主食の増産に重点が置かれ、日本にとって重要性のない大根や白菜などの蔬菜は放置されたため、韓国の人達にとって欠かせないキムチの材料をまともに作れない状況にあった。

日本の植民地支配から解放された当時の韓国は、白菜、大根などの主要野菜の種子を膨大な外貨を使い、日本から輸入していた。

優良な種子が大量にないと、優良な野菜を大量に作ることは出来ない。

このような状況下で、タキイ種苗の同僚だった金鐘(キム・チョン)が「今の韓国に来て種子の問題を解決してくれる人は禹長春しかいない」と声を上げると、韓国政府・国民挙げての大きな運動となったのだ。

国母閔妃殺害で国賊の烙印を押された禹範善を父に持ち、日本生まれの禹長春は韓国語が話せなかった。

だが1950年、韓国行きを決意し、妻と子供を日本に残し単身渡韓した。52歳の時である。

生まれ育った日本がしっくりきていたが、やりたい研究に思う存分打ち込め、それが父範善の生きた国のためになればと考えたといわれる。

大統領李承晩(イ・スンマン)の強い支援も受け、釜山に設立された韓国農業科学研究所所長に就任し、各地の農村を視察する。

ここで、国民にとって最も重要な大根と白菜の種子作りを始める。

まず職員に育種学の重要性を力説する。優良な固定品種を作るには、優良な個体を選抜し、人工交配を重ね、優秀な組み合わせを選抜して原々種を作り、この原々種を原種に増殖した後、一般普及種子として大量生産する。

日本と韓国の多くの在来種を掛け合わせながらこれを続けるが、ここまでで5年、ここから更に数年かけて品種間交雑を行い、雑種強勢の強く現われる雑種第一代〈F1〉という品種を育成しなければならなかった。

韓国に渡った1950年、朝鮮戦争が勃発した。中央園芸技術院(国立試験場)院長に就任した1953年には、最愛の母「死す」の報を受け、日本への帰国を大統領にまで嘆願したが、叶わなかった。

李承晩は、禹長春を帰すと再び韓国に戻らないのでは、と懸念し出国許可を下ろさなかったと伝えられている。

日本語しか話せず、当初の状況は非常に困難であったが、朝鮮戦争で苦しむ国民に希望を与えるとともに、1955年頃には大根や白菜は自給態勢を整えるまで持っていった。

また高冷地でのジャガイモ、収量の多い稲の栽培にも精力を注いだ他、済州島近辺をミカンの大生産地とした。なお大根や白菜、ミカンの原種は日本の品種が多く含まれている。

大統領からの農林部長官(農林大臣)就任要請も目もくれず、この後、稲の裏作に農家にとって収益の大きい馬鈴薯の研究に没頭した。

1959年、ソウルのメディカル・センターに入院する。病状を悪化させ同年8月10日に亡くなった。享年61。韓国に来て9年後のことであった。

亡くなる直前に韓国政府は禹長春に〈大韓民国文化褒章〉を贈っている。〈大韓民国文化褒章〉は韓国国民にとって最高の名誉である。葬儀は国葬に準じる社会葬として行われた。

禹長春の韓国滞在は9年間であったが、韓国の農業は禹長春の弟子達によって、その後飛躍的に発展していく。

現在、我々在日韓国・朝鮮人は、学者以外、禹長春博士について知る人はほとんどいない。

韓国では道徳の教科書に載っており、韓国国民で禹長春博士を知らない人はまずいない。白菜などの種子の自給体制を確立したため〈韓国近代農業の父〉、あるいは〈キムチの恩人〉として有名だ。

禹長春には6人の子供がおり、うち四女・朝子はあの京セラ創業者である稲盛和夫に嫁いでいる。

父禹範善の行動のため当初は厳しい目もあったが、現在ではその功績により李方子(イ・パンジャ:朝鮮王朝最後の皇太子、李垠に嫁いだ日本の元皇族)と並んで高く評価されている人物である。

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京都の種苗会社の会長は、禹博士の逸話を詳しく話された後、「戦前、日本の種苗が目を見張るほどに品質改良できたのは、禹長春さんのお陰だ」とたいへん深く感謝されていた。

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