ケーキ

 ホールケーキを見るたびに、決まって父を思い出す。

 幼少期、自身の誕生日にはお祝いのケーキを父と切る権利が与えられた。今振り返ると、なんてことのない権利なのだが、当時の私にとっては365日のうち一回しか訪れない何とも特別な権利だった。そして私は何よりもその権利を楽しみにしていた。

 ろうそくの灯りのみで照らされた薄暗い部屋の中、父と手を重ね包丁を持つ。反対側ではろうそくで照らされた母と兄の顔がある。ぼんやりと薄暗い中でもきらきらと目を輝かせた兄と、満面の笑みでこちらを眺めている母の顔をはっきりと覚えている。今振り返ると幼少期は包丁を持つことを禁じられていた我が家であったため、その日しか触れることのできない憧れの包丁と、家族のワクワクが一心に注ぎ込まれたその瞬間への興奮だったのかもしれない。それでも私は毎年その瞬間に、何にも変え難い喜びを得るのであった。包丁を握った小さな私の手にそっと重なる温かで大きな手に包まれる瞬間がたまらなく嬉しかった。

 父とケーキを切るあの瞬間が何よりも好きだった。「ケーキ入刀〜!」母が声を上げるあの瞬間が何よりも好きだった。鼻歌まじりにザクザクと切り進めていく父のたくましさが何よりも好きだった。

 大人になり各々の好みの味覚を優先するようになった今、私たちは各々の食べたい1人分のケーキを選ぶ合理的な手段を手に入れた。無論、楽しく会話を交えながら選ぶその瞬間も悪くはないが、ふとあの日の高揚を思い出す時、たまにはホールケーキを買って帰ってみようかと思うのである。「幼少期の思い出の宝箱から一つ徐にひっぱり出すのも、たまには悪くないかもしれないな…。」なんて思いながらも、今日も私は人数分のケーキを買って帰るのである。

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