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人を批判してしまう時に、自分の中に起きてること。

今日は、人を批判してしまう時に、自分の中に起きてることというお話をしたいなと思います。

これは、すごく自分自身で自戒を込めてになる話でもあるんですけど、日々過ごしてるとどうしても、人に対して批判的になってしまうことってあると思うんですよね。

不機嫌な時に不機嫌さを前面に出してくる人に、自分で自分の機嫌も取れない大人なんてやだなとか。

言葉使いが荒いタクシーの運転手さんに接客業なんだったらちゃんとしろよとか。

あと、すごく煽って情報商材なんかを売ってる人を見てなんか汚い商売してるなぁとか。

情報発信をしてる人を見て、よくあんな感じで発信出来るなとか、、

イラっとしてる時とかって、悟られとかもしこの世にいたら自分の黒さが恥ずかしくなるくらい、私もすごく人に対して批判的になる時があります。

実際に、この批判的になること自体はとくにダメなことではなくて。

それは以前もお話したようにネガティヴな感情の裏には、自分の本当の望みが隠れてたりもするし。

そういった感情が湧き出てくるのに、こんな風に思っちゃダメだみたいに押さえつけることは、個人的には不健康なことだと思うので。

そんな風に批判的になってもいいし、きっとこの世に悟られもデスノートもないとは思うので、誰をどう思っても自由なんですよね。

けど、この批判をした時に同時に起きてることとして、批判した相手に言ったことは、そのまま自分にも言ってることになるんですよね。

というのも、例えば不機嫌な人に対して許せないという感情が出てくると、自分に対しても常に機嫌よくしてないとダメだっていってるのと同じで。

情報発信に関しても、他人に対してあんな感じでよく出来るなと思うとすれば、自分に対してもきちんとしてからじゃないと発信しないととハードルをすごく高くしてしまう可能性もあるし。

煽って情報商材を売ってる人に嫌悪感があると、煽らなくても自分の商品をつくって売ることに謎に罪悪感が出てきたりします。

だから、どうしても批判的になればなるほど、自分自身の行動も制限してしまってることにもなるんですよね。

とはいえ、批判的な感情が生まれることは仕方ないので、ここで考えたいのが、批判的になる感情と自分の行動への制限を切り離して考えることかなと思っていて。

例えば、常にご機嫌でないといけないというのは、もちろん相手に対してはすごく素晴らしいことなんですけど、中には辛い時には辛いっていうことで、それが相手を信頼してることにも繋がることもあるし。

情報発信に関しても、完璧を求めることは素敵なことだけど、人も自分も含めて不完全であっても発信することで出来る成長もあったりするし。

情報商材も全てが悪というわけではなくて、煽ることや人を騙してまで物を売ることはよくないけど、自分の経験をシェアすることって全然悪いことではないし。

全てをダメだと思ってしまうと、人に対しても自分に対しても可能性を狭めてしまうことになると思うんですよね。

これがいきすぎてしまうと、これがSNSなんかの誹謗中傷になってきて、芸能人のちょっとした言動に批判的になってくるのかなと思うんですけど。

人を批判すればするほど、自分に対しても許せないことが多くなってくると思います。

(もしかしたらSNSで誹謗中傷する人なんかは、自分を棚にあげてるのかもしれないんですけど)

批判も心の中でもやっとするとか、ちょっと思うくらいだったら、全然いいと思うんですけど、行きすぎると健全ではないと思うし、自分で自分の首をしめることになるんじゃないかなと思ったりもします。

なので、なるべくNGをなくして、心も自由に生きられたらいいなと思う最近です。

私自身、憧れる人物像は「仏」と昔から名前をあげるくらいに、心が狭くてつい批判しがちなので、批判してしまった時は自分の心の自由も失ってることを頭に入れておきたいなと思います。

ではでは、今日も良い1日をお過ごしください٩(* 'ω' *)و

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