海馬瀬人
この記事を書き始めた日は海馬瀬人の誕生日でした。
だからというわけではないですが、僕自身の海馬瀬人についての所感を書き留めてみようと思います。
海馬はアニメと原作で大きく在り方が違うキャラクターであり、アニメでは青眼の白龍への愛や兄弟という関係性に対する感情が原作よりも強く、原作ではそれらが控えめの代わりに復讐心や野心が強いです。
アニメでは乃亜やアメルダ、ジークといった兄弟に携わるキャラクターが海馬の前に立ち塞がります。
特にかつて海馬剛三郎が売った兵器で弟を喪ったアメルダに言い放った「絶対に弟を死なせなかった、どんなことがあってもだ」という台詞は、DEATH-Tでモクバに死の体感をさせた原作の海馬では吐けないと思います。
あとは乃亜編で剛三郎との決着をつけられたことが、海馬の復讐心や野心への一区切りとして大きかったのではないでしょうか。
原作の決闘都市編の終盤で海馬は剛三郎の怨念と戦ってきたと心中で語り、同時に遊戯戦で告げられた「怒りと憎しみの先に勝利はない」という台詞も回想しています。
最終的に人工島を破壊することで剛三郎と決別はしましたが、海馬の過去には常に怒りと憎しみが渦巻き、それを叩き付けることが彼の決闘でした。
そして遊戯を過去の象徴と定め、彼を打倒することで己の過去を全て葬り去ろうとしていました。
剛三郎と遊戯を過去という概念として同一視し、それを打ち砕くことで怒りや憎しみの渦巻く己の過去から決別しようとしていたのです。
しかしアニメでは決闘都市の準決勝の前に乃亜編で剛三郎と決闘して勝利し、明確に剛三郎と因縁に決別することができました。
準決勝で原作同様のやり取りをしているので違和は残りますが、剛三郎との因縁に決別することができたのは大きな違いだと思います。
しかし一番の違いが何かといえば、戦いの儀を観戦しているか否かです。
原作では戦いの儀を観戦していませんが、アニメではモクバと共に観戦していますし一度立候補した上で最終的に遊戯に委ねています。
映画を見た後では考えられない所業なのですが、あの海馬が本当に戦いの儀を観戦しただけで変わるのだろうか。
半年ほど前にアニメの戦いの儀を見直すことができたのですが、アテムが三幻神を召喚した後に海馬がこれ以上決闘を見届ける必要はないと去ろうとする場面があるんですね。
でも遊戯が最後まで見届けてほしいと告げ、渋々ではあるがその場に残った。
ご存知の方も多いと思いますが、その後で遊戯はアテムの三幻神を打ち破ります。
海馬が不可能と判断したことを、遊戯は成し遂げました。
このシーンを考慮するに、アニメの海馬は戦いの儀でアテムと対峙することなく敗北したのではないでしょうか。
同時に遊戯は「王の魂を宿す器」ではなく「己が不可能と判断したことを成し遂げ、生涯のライバルに引導を渡した一人の決闘者」になった。
だからこそアニメの海馬はアテムへの思いを引き摺ることなく、デュエルモンスターズの学校を建設したりと未来へのロードを歩むことができたのではないかと思います。
現世にいる武藤遊戯を倒すことができれば、それはアテムを打倒したことにも等しいのだから。
しかし、原作では戦いの儀を観戦しなかった。
その結果が映画・DARK SIDE OF DIMENSIONSです。
戦いの儀からおよそ一年が経過し、遊戯たちは卒業式を間近に控えていた。
将来に向けて思いを馳せる中、海馬は”遊戯”への執着を募らせていた。
原作者からも狂気を宿していると言われ、作中でも藍神に狂った独裁者と指摘され、映画内の描写からも疑う余地はない。
原作から一年後の海馬瀬人は正真正銘の狂人です。(以降、原作の海馬を映画の海馬と呼称します)
デッキが無ければ住民登録ができないこと、千年パズルを組み立てるために宇宙ステーションを建設してしまうこと。
街が静まり返った夜中でも海馬コーポレーションは煌々と輝いていて、遠く離れたエジプトの地にいながらも童実野町の状況を一瞬で把握でき、彼の一存で一時的とはいえ街の交通網を停止することができる。
決闘都市編で一日だけとはいえ街全体を決闘大会の会場にしてしまうだけのことは出来ましたが、明らかにそれ以上の権力と技術力を持っています。
そしてこれらの所業は、ほぼ”遊戯”との決着のためだけに行われているんですね。
千年パズルを組み立てるためだけに建設された宇宙ステーションは勿論のこと、これは他の方が以前仰っていたのを目にしたのですが「デッキが無ければ住民登録ができないことを含む童実野町の支配」に関しては”遊戯”が何らかの事情で復活してデュエルを始めた際にすぐに把握して現場に直行できるようにするためだったのではないかというのが正解だと思っています。
記憶の道化を再現できる海馬が”遊戯”のプレイングや癖を把握していないはずがありません。
同時に遊戯の動向も監視していたのだと思います。だからこそ劇中で城之内を探して走り回っていた遊戯のところに現れることができた。
映画の海馬にとって海馬コーポレーションやM&Wの繁栄なんていうのは副産物にしか過ぎないわけですが、海馬の恐ろしいところはそこを明確に切り分けて判断することができること。
劇中で記憶の道化に対して憤慨して科学者たちを叱責しますが、直後に次世代デュエルディスクの発表を命じる描写があります。
”遊戯”との決着に繋がらなくても、それが商品として魅力的かを冷静に判別することができる。
狂気を宿していながら、経営者としてのセンスは健在なのです。
映画の前日譚のTRANSCEND GAMEでもそうでしたが、頭部にヘルメットのようなものを被ってVRゲームに没頭する子供たちを見て「実に愛くるしい卵たちよ……」とほくそ笑みながら、子供たちの健康面は万全にしろと部下に命じる二面性があります。
経営者として当然ではあるのですが「何百人もの子供たちが体育館のような場所で座り込み、ヘルメットを被って、独り言を唱えながら、虚空に向けて決闘の仕草をする」光景は異様ですし、彼らの健康面に細心の注意を払う人間が繰り広げる光景とは思えません。
しかしその二面性が両立するのが海馬であり、それが海馬の狂的な執着を実現する礎となっているのです。
ここからは僕の想像になりますが、おそらく海馬は海馬コーポレーションの科学者たちに相場の数倍は給料を支払っていますし、童実野町の住民登録をした人々には通常では考えられないような見返りを用意していると思います。
海馬にとっては”遊戯”との決着こそが悲願であり、それを果たすためならば金銭など惜しくはありません。狂気を宿していながら、それを冷静に遂行していくだけの技術力、財力、知力、権力を備えているわけですね。
原作では千年アイテムのことを「オカルトグッズ」「非科学的」と貶していたにも関わらず、映画ではそれを掘り起こすことが”遊戯”との決着に必要な過程であると判断していること。
さらに藍神のプラナの力を決闘盤の技術力で防御し、君たちには解析できないと言わしめた量子キューブの力を次元領域エミュレータの技術の礎にしているところです。
「オカルトグッズ」のメカニズムを完全に理解し、それを科学で超越しているんですね。
科学で解析されたメカニズムはもはやオカルトではなく、つまり海馬にとって千年アイテムは当時の技術を用いて開発された普通の道具に他ならないのです。今の海馬であればペガサスの千年眼やイシズの千年タウクの干渉も科学的な観点から防御するでしょう。
あらゆる方面で一年前とは比べ物にならないくらい飛躍した海馬ですが、それでも彼が一年前と変わらないものがあります。
今まで散々アテムのことを”遊戯”と記してきましたが、それがこの答えになります。
海馬にとってアテムは未だに”遊戯”なんですね。
劇中でアテムの名前を出すシーンがあったので知らないわけではなく、それでも基本的に彼のことは”遊戯”と呼称しています。さらに遊戯や城之内といった面々には新しい私服が用意され、モクバに至っては雰囲気まで変わっているにも関わらず、海馬だけは原作と同じコートを身に着けています。変わっているのは決闘盤だけです。
未来に進むことだけを考えて、アテムを過去の象徴とした倒そうとした海馬だけが過去に取り残されていたのです。
劇中で将来の夢を語り合うシーンがあり、童実野高校の卒業式が執り行われました。杏子はアメリカへ留学し、遊戯も改めてアテムと決別します。
しかし、卒業式に海馬の姿はありません。
いつの間にか海馬自身が過去の象徴になってしまいました。
次は海馬の決闘について語ろうと思います。
まずは、海馬vs藍神です。
この決闘は次元領域決闘という特殊なルールで行われ、このルールを活かした藍神の戦術は海馬を散々苦しめました。しかし皆さんがご存知の通り、最後はオベリスクの巨神兵を召喚して逆転します。決着こそつきませんでしたが、あの状況では藍神に為す術は無かったでしょう。
藍神の決闘は所謂ソリティアに近く、現代の”遊戯王OCG"そのものといっても過言ではない動きでした。「カウンターゲート」に対して「方界曼荼羅」で相手の場を埋め尽くして召喚を阻害する動きは非常にOCGらしいです。
しかし、海馬が地面からカードを引き抜いてから状況は一転。
「本来デッキに入っていなかったカードをドロー」「モンスターではない、神だ」などは原作で行われていたTRPGのようなやり取りであり、原作で行われていた”M&W”そのものです。
たった一枚のドローが、決闘の流れそのものを変えてしまいました。
藍神は特殊ルールによる決闘で翻弄するつもりだったのでしょうが、海馬に所謂”俺ルール”が通用するはずもないんですね。
実際にオベリスクの巨神兵を召喚してから次元領域の結界は崩壊しています。
プラナの力で別次元に送るのも、次元領域決闘による特殊なルールも、並の精神力の相手であれば効果的なのでしょうが、海馬の狂気と精神力の前ではまるで意味を為しません。
映画の海馬に心理戦を挑むなど無謀もいいところです。
だが、しかし。
たった一人だけ、海馬の心理戦を挑むことができる人間がいました。
武藤遊戯です。
そもそも遊戯は揺さぶりの天才であり、原作のペガサス戦でのマインドシャッフルは好例です。ペガサスの弱点を冷静に見抜き、的確に相手の嫌がる手札を繰り出す姿は圧巻でした。
前哨戦である遊戯vs藍神でも追い詰められているように見せて罠を張り、特殊ルールだからこそ成立する無限ループで藍神を倒したりと、カードの強弱に依存しないゲームの上手さが垣間見えます。
そして、遊戯vs海馬。
遊戯にとっては因縁の対決でも、海馬にとっては前哨戦です。
決闘も佳境へと差し掛かり、それぞれの切り札が同時に墓地に送られたターン。遊戯は海馬の目の前で千年パズルを完成させます。
しかし、何も起きません。
それを目の当たりにした瞬間の海馬の表情は驚愕と絶望に満ちていました。
瞳は揺れ動き、カードを持つ手は震えています。
あの海馬が動揺しているんです。
如何なる時であろうと己の道を突き進んでいた海馬が、明確にお前は間違っていると告げられた瞬間。
直後に遊戯から渡された「死者蘇生」を「高速詠唱」で無理矢理発動したものの、「ファイナル・ギアス」によって不発に終わります。
決着こそ着きませんでしたが、海馬の手札は「融合」「青眼の白龍」であり遊戯の「ブラック・マジシャン」を止める術はありません。
あの時点で海馬の敗北は確定しています。
遊戯があのターン内でトドメを刺す算段がついていたため、本来ならば海馬に「死者蘇生」を発動するタイミングは無かったのですが「高速詠唱」で無理やり発動させました。
その姿は、まるでアテムを無理やり蘇らせようとする海馬の姿を想起させます。
それを「ファイナル・ギアス」(最後の禁忌)が止めて、遊戯が墓地の「ブラック・マジシャン」を蘇生するのは後の展開を考えると非常にメッセージ性が強く感じられます。
また、あのタイミングで千年パズルを完成させた遊戯の真意は何か。
勿論、海馬に既に千年パズルにアテムがいないことを伝えるのが一番の目的ではありますが、それならば決闘を始める前でもいいはずです。
これは他の方が仰ってたことも統合しての話ですが、OCGのルールに則ると「ファイナル・ギアス」を先に発動した場合、チェーンして「高速詠唱」を発動された時に相手の蘇生を許すため、先に「高速詠唱」を発動させるように心理誘導をしたというものです。
遊戯は決闘の流れが有利に運ぶようにすると同時に、最も海馬の精神に語り掛けられるタイミングで千年パズルの真実を伝えたわけです。
海馬も渡された「死者蘇生」が罠であることには気付いていたでしょう。
それでも心理的に発動せざるを得ないほど、遊戯の行動は海馬を追い詰めたのです。
そこにあったのは光の中で完結したはずの”もう一人の僕”との絆を土足で踏み荒らそうとした海馬への怒りだったのかもしれないと僕は考えています。
そして、最後の海馬が冥界へ旅立つシーン。
粒子を身体から迸らせながら、砂漠を歩いて王宮へと辿り着き、最後にアテムの姿を見据えて微笑みます。
蘇らせることができないなら自分から冥界に行くという判断ができるのは海馬らしいですが、ファンの間でも議論になっている内容があります。
あの後で海馬は現世に戻ってきたのか。
あくまで僕の意見になりますが、海馬は戻ってきたのではないでしょうか。
冥界へ旅立った時点では戻る算段はついていなかったとしても、冥界で何らかの手段を探り当てるか生み出すかして海馬は現世に戻ると思います。
海馬は未来を見据え続けていましたし、過去にいつまでも入り浸るようなことはしないはずです。
今回のシーンで注目すべきところは、モクバの制止を振り切って海馬が冥界へ旅立ったことではないでしょうか。
TRANSCEND GAMEで冥界に到達してアテムの姿を幻視した時、寸でのところで彼を引き止めたのは”青眼の白龍=キサラ”とモクバの二人でした。
どちらも海馬の根幹を為す重要なファクターです。
しかし映画の最後ではモクバの制止を振り切った上、青眼の白龍も決闘で力を貸すことはありませんでした。
海馬vs遊戯のラストターンでは手札で青眼の白龍は眠り続け、遊戯&海馬vs藍神ではそもそも海馬の手札に舞い込むことはありませんでした。
海馬の決闘で「青眼の白龍」が登場しなかったのは決闘都市編の準決勝バトルロワイアルのみであり、「青眼の白龍」を引き当てていれば藍神の「暗黒方界神クリムゾン・ノヴァ」を撃破することができていました。
それをしなかったのは、「青眼の白龍」が海馬を現世に引き止めたかったのではないかと考えています。
原作の時点では”遊戯との決着”よりも「弟」や「青眼の白龍」の方が重かったはずが、映画の最後では逆転しています。
海馬という男にとって、”遊戯”という男はそれほどまでに大きな影響を及ぼしたという現われでしょう。
長々と話してしまいましたが、僕の海馬瀬人に関する考察は以上になります。
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