楽譜が伝えるパートナーシップ

 世界を見て回って館に戻り、久しぶりにギョーザーでも作ろうかと思っていたところに、ヴォルフがいきなり台所に飛び込んできた。

「ねー、ルー君、一緒にピアノ弾こう?」
 台所にはそぐわない発言だったが、実は、ヴォルフがいつかそんなことを言い出すのではないかと密かに予想していた。
 世界を回る内に、俺たちは想像以上に俺たちの音楽に出会うことになった。それは別に演奏会に限らない。町中で流れたり、テレビから聞こえてきたり、あるいは携帯電話の呼び出し音になっている。
 そして今でも、俺たちの曲を練習している学生達もいた。
 その学生達を見る度に、必死にピアノや様々な楽器に向かい、技術を磨きながら曲を作り上げていったことを思い出す。俺はその後耳が聞こえなくなるという事態に襲われたが、その前に必死に自分の音を探していたことは今でも覚えているのだ。
 そして、それは一緒に旅行していたヴォルフも同じだったと信じている。ヴォルフは昔、俺以上に宮廷や、望まぬ仕えに縛られていた。自由奔放で流れるような曲を生み出したヴォルフには耐えがたいことだったに違いない。

 今、俺は耳も聞こえるし、そして俺もヴォルフも何にも縛られず、自由に音楽を楽しむことができる立場だ。家賃のことはこの際脇に置いておく。
 そうなれば、ムジークを出す以外にも、自分たちで楽器を演奏したくなるのも当然の流れだ。
 しかし、どこに調律が行き届いた、ピアノが二台あるというのだ?
 そこで助け船を出してくれたのがリストだった。なんでも、現代の世界で最高級とされているピアノが二台入っているスタジオがあるという。
 今度私とも演奏するのよ、という念押しとともに、リストが手配してくれたスタジオへ俺とヴォルフはやってきた。学校が終わったらしい小娘と少年も着いてきた。
 歓迎である。音楽は聴いてくれる人がいてこそだ。

 スタジオについて俺は驚いた。
 流石だ。調律はもちろん、よく響き、反応が早いピアノである。これは弾きごたえがある。我が館にも一台欲しいと思ったが、8桁の値段のピアノを小娘が買ってくれるとも思えない。まずはこの時間、このピアノを弾けることに感謝しようか。

「はい、これ。ルー君なら初見で弾けるでしょ?1のパートをお願い。僕は2を弾くから」
 と、ヴォルフが笑顔で差し出して来た楽譜には見覚えがあった。というより、一緒にピアノを、しかも二台でと言ってきたからにはこの曲だろうと見当はついていた。
 
 二台のピアノのためのソナタ、K.V.448。
 
 例えば連弾だと、高音を弾く方が主旋律で、低音を担当する方が伴奏というように役割が分かれる。しかしこれは二台のピアノがどちらも主役という、ある意味ヴォルフらしい曲なのだ。

 どんな曲か分からない、ときょとんとしている少年と小娘のために、端末が助け船を出してくれた。
「モーツァルト作曲の二台のピアノのためのソナタ、K.V.448です。モーツァルトが女性のお弟子さんのために作った曲だと言われています」
 説明の後に、曲の冒頭が流れる。
「へー、なんか随分きらきらっとした感じの曲っすねー」
「だって、これ女の子のために作った曲だもーん。習いに来てくれるお嬢さんは大事なお客様だからね?きちんと彼女の顔を立てながら、僕の技術にも納得できる曲に仕上げたつもりだよ」
 確かに、そうとも説明できるが……。
 
「でも二台のピアノってさ、指揮者とかいない訳じゃん?どうやって合わせるの?」と少年が無邪気に聞いてきた。
 俺とヴォルフは同時に嘆息した。彼が持っている端末もため息をついたのは、空耳ではないだろう。
「まずはお互いに話し合う。大体これくらいのテンポで、とか。今ならメトロノームを使えば話は早いだろう」
「後は呼吸だよね-!大体相手の癖とか、レベルとか知ってれば分かるもんだよ。あとは弾きながら相手とアイコンタクト。これでオーケー!」
「でもそれって弾く相手をよく知らなきゃ弾けないって事ですよね?後、弾く人のレベルが違う場合はどうするんですか?」
 まだ小娘の方が合奏を理解している。
 ヴォルフはその質問が気に入ったのか、特大の笑顔を見せた。
「この曲はね、僕のお弟子さんの女の子に作ってあげたから、もちろん彼女の弾き方も分かってたし、レベルも知ってたんだよー!ま、その女の子は、ちょっと僕の好みじゃなかったんだけどねー。だから隣り合う連弾じゃなくて、席が離れる二台ピアノの曲にしたんだけど」
「弟子に作ってあげたって事は、モツさんが伴奏したんですか?」
「違うよー、奏助。大事なお客さんだけど、僕の技術もちゃんと見せたいからねー?これは二人とも主役なの!」
 そんな事を笑いながら嘯くヴォルフの声を聞きながら、俺は楽譜を眺めていた。
 口では酷いことを言っていても、ヴォルフはきっとその女性を尊重していたのだろう。確かに昔のヴォルフの女性関係は派手だったと聞いているが、たとえ音楽に本気ではないお嬢さん相手に、こんな本格的な曲を作るという事からも、ヴォルフは、常に心の底では音楽を大切にする気持ちを抱いていたことが見て取れる。
 これは簡単なお稽古事レベルでは弾けない曲だ。しかも相当速いし、ちょっとでもバランスが崩れたら一気に二台がかみ合わなくなる。奏者二人ともに、ある一定以上のレベルがないと弾けないし、お互いの信頼と呼吸が大事である。ヴォルフが教えていた女性は相当音楽の腕前が高かったに違いない。ヴォルフはお嬢さんだからと相手を見くびることはなく、この曲においては対等のパートナーと見なしていたに違いない。
 
「つまり、曲を作るにも、曲を弾くにも、相手を分かっている必要があったと言うことだ、分かったか、小娘、少年」
 俺の言葉に対する反応を見ると、少年の方はやや心許ないが、小娘の反応には手応えを感じた。流石あの館を守っている大家と言うべきだろう。

 そして、俺にこれをすぐここで弾けと言ってきたことは、俺のピアノの技術も信頼してくれたからに違いない。

 だったら、それに応えなくてはな。

 この曲をともに作り上げる、パートナーとして。

「大体見終わったぞ。テンポはいくつでいく?」
「細かいルー君らしいー!じゃ大体120ね」

 俺とヴォルフはそれぞれのピアノの前につき、お互いの視線を合わせてから、同時に息を吸い、最初の和音を響かせたー。
 
 お互いに駆け上がり、テンポの速い掛け合いをしていくような第一楽章。「天上の音楽」と称されたモーツァルトの真骨頂を示すような第二楽章。軽やかに締めくくられる第三楽章。
 主旋律を受け持つのが俺か、ヴォルフか、自在に交替し、同じ旋律を奏でながらも、奏者の違いでより旋律の厚みが増す。
 
 いや、そんなことはどうでもいい。本当に楽しい。
 ヴォルフとピアノで語り合っているこの時間を、俺は満喫していた。
 そして終わった後のヴォルフの笑顔も、本当に幸せそうだったし、聞いていた小娘や少年の驚きと喜びに満ちた表情から、俺は音楽の持つ力を再確認した-。
 
 館に戻ってリストに礼を言うと、今度約束を守ってね、とウィンクされた。ショパンもぼそっとピアノを弾きたいと言っていたから、今度奴もともにスタジオに向かうことになるだろう。
 そして、俺たちの演奏を聞き逃したシューベルト君は悔しがっていたが、そんなに落ち込むことはないと言ってやった。
 なぜなら、俺たちには自由な時間がまだまだある。これからどんどん音楽を楽しめばいいのだ。ショパンやリストと連弾してもいいし、彼らの演奏を聴くのもいい。シューベルト君の歌に俺が伴奏するのも楽しそうだ。そして同じ曲でも弾き手や歌い手が違えば、また新たな魅力が生まれる。
 
 楽器を演奏して、パートナーとともに曲を作り上げる楽しさを思い出させてくれたヴォルフに感謝しながら、俺は空腹であることを思い出し、ギョーザーを作るべく台所に向かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?