まどろみの後にコーヒーを
なんだか今日はいつもより洗濯物が多いな。歌苗は心の中でつぶやいた、
洗濯籠を持ち上げるといつもより重い気がした。なんだか廊下も長く感じる。
実は洗濯物は増えていないし、廊下が延びるわけもない。
季節の変動。日々の家事や学校生活。
若い歌苗にも疲労は確実に蓄積していた。本人が気がつかない間に。
しかし、洗濯籠を抱える歌苗を階上から見下ろしていたクラシカロイド達は歌苗がいつもと違うことに気づいていた。
「最近、歌苗に話しかけてもなんか上の空なんだよねー。全然叱られてないー!」
「それはお前の言動にいちいちつきあっていられないからだろう、モーツァルト!」
「…シューもうるさい」
「そうよ、みんな子猫ちゃんに対する愛が足りないんじゃなくて?」
「いや、かな…小娘に足りないのは睡眠だ」
ベトの言葉にクラシカロイド達は振り向いた。
「小娘はテストとか言うもののために、最近寝るのが遅かっただろう」
…よく知ってるね、というショパンのつぶやきはベトのにらみでかき消された。
「そっかー。そういえば奏助も勉強したほうがいいですよってパッド君に言われてたもんね。じゃ、僕たちで家事を手伝おっか?」
「そうだ、モーツァルト!貴様が一番大家殿に迷惑をかけているのだ。家事をしろ!この私を見習って!」
「…だからシューもうるさい」
「いいから、さっさと手分けするわよ!」
言い争うクラシカロイド達はそのままにしておいて、ベトは一人すっと階段を降りて歌苗に近づき、洗濯籠を取り上げた。
不意を突かれて歌苗がベトの方を向くと、ベトはやや険しい顔をして歌苗を見下ろしていた。
「ベト、どうしたの?今日はテストも終わったし、私がやるわよ」
ベトの眉間のしわが一層深くなった。
「いい、たまには俺…俺たちに任せて、少しゆっくりしたらどうだ」
「大丈夫ですから!私若いんですからね、お・じ・さ・ん」
歌苗はこの間、公園で小学生におじさん呼ばわりしていたベトをからかい、にっこり笑った。
その笑顔にベトは思わず見惚れてしまいそうだったが、疲れてもなお冗談を言いながら家事をしようとする歌苗を止めようと、ベトは思わず洗濯籠を床に置き、すっとタクトを取り出して、徐に振り下ろした。
「―少し眠れ、小娘」
そして、聞き慣れた旋律が響きだした。
流れる音楽は、「豊穣の夢」。そう、エリーゼのために。
美しい歌声が空気全体を癒やしていく。
歌苗は透き通るようなソプラノの声にベトに反論するのも忘れ、うっとりと聞き惚れながら、聴いていたいと思いながらも眠気に引き込まれていくのには勝てそうもなかった。
「ごめん、寝ちゃいそう、ベト…」
聴いていたいのに。やっとの思いでつぶやく歌苗の声は小さかったが、ベトの耳にはしっかり届いた。
張り詰めていた緊張が抜けたのだろう、歌苗の目はとろんと夢見るようになり、体がゆらりと傾いたところを、ベトは両腕で受け止めて抱き上げる。
「それが俺の願いだ。ひとときまどろむがいい」
―お休み、歌苗。
歌苗はベトの腕の中で、音楽の響きとベトの体温の心地よさに包まれ、とうとうゆっくりとまぶたを閉じた。
ベトが歌苗をソファの上にそっと降ろしても起きることはなく、すうすうと寝息を立てていた。そこには疲れた表情はなく、穏やかで、安心しきった歌苗の顔があった。その表情を見て、険しかったベトの表情もふっと緩んだ。
そうだ。なかなか穏やかな顔は見られないが、そうやって気持ちよく夢の世界にいてくれればいい。それが今の歌苗に一番必要な物だ。
そうやってしばらくベトは歌苗の顔を見ていたが、ふと思いついてムジークの衣装から普段着に戻っていたジャケットを歌苗に掛け、スカーフでふわりと覆った。
起きたらこの俺がコーヒーでも淹れてやろう。それまでに洗濯物を片付けなくてはな。
ベトはそうつぶやき、洗濯籠を取り上げて洗濯室に向かった。
その様子を階上で見ていた他のクラシカロイド達も、歌苗の睡眠と、二人の空気を乱すまいと、いつの間にかそっと姿を消していた。
歌苗が起きる頃には、今度はコーヒーの香りが漂っていることだろう。こだわって、丁寧に淹れることで引き出された芳醇な香りが。
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