麒麟と泡盛

祖父との話です。

近畿地方に住んでいた祖父は、茶の糶商いをしていました。丹念に畑で育てた茶を、十数キロ先のお得意さんへ自転車で届けに行くような、実直な人柄でした。

後に祖母から聞いた話では、街灯も無かった頃、遠い遠い、稜線さえも夜空に溶け込むような真っ暗な山の中から、ホタルのように小さな自転車の灯りが見えると「ああ、今日も無事に帰って来た」と安堵し、ようやく夕餉の支度をしていたそうです。

そんな祖父の好物が、瓶ビールでした。関東から、小・中学校の夏休みを利用して訪れる祖父母の家には、いつもケースで瓶ビールがあった。といっても、そのころの私には「好きなだけ王冠が手に入る」という興味ばかりで、それが何なのかも分かっていませんでした。黄色いケースに瓶がいっぱい並んでいて、祖父や叔父が大好きなもの、という程度でした。

初孫だった私が訪ねて賑やかになると、近くに住む叔父や叔母が集合し、いとこが集まり、祖父がビールの栓を開ける。そして私はその王冠を集める。それがいつもの「夏休み」でした。

祖父が夕食の席で、赤い顔をして楽しそうにしていると「もっと持っていってあげよう」と、中身の入った瓶を水屋から持ち出し、祖父に差し出しました。祖父は「おうおう」と言って受け取ろうとしていましたが、祖母や叔母たちに咎められ、手を引っ込める。私は私で「余計なことしたらあかん」と叱られる。当時は「何が悪かったんだろう」と不貞腐れたものです。

そんな私も、修学旅行の沖縄で「泡盛」を買いました。今思えば、引率の先生もいたのに大胆な話ですが、実は私は「泡盛」が何か、知りませんでした。

ハブとマングースのショーを見たあと、同じ建物にあった土産物店に、瓶ビールと一緒になって、見たこともないカッコイイ瓶がありました。反射的に祖父の顔が浮かび、「このカッコイイ漢字が書いてある瓶なら珍しいし、きっと喜ぶ」と思って、お店のおじさんに「これください」と頼んでいたのです。高校一年生の夏でした。

おじさんは笑顔で「これ、どうするの」と聞いてきました。私が「田舎のおじいちゃんがお酒が好きだから、お土産に買いたいんです」と答えると、店のおじさんは笑って「そうか」と言い、売ってくれました。「割らないように気をつけなさい」と声もかけてくれました。

実はそのとき、後ろに先生も立っていたのですが、あまりに私が無邪気に買っていたためか、「本当にお土産だ」と思ってくれたようです。実際本当なのですが、今にして思えば、よく二人とも見逃してくれたと思い、今でも自分の無知に恥ずかしいかぎりです。先生にしてみれば「夜中にホテルで飲むんじゃないか」と疑ってもおかしくない立場だったのですから。

二人の親切な大人の庇護によって、泡盛と共に無事に関東へ戻った私は、「沖縄で何を買って来たんだ」と母親に咎められつつも、その年の夏休み、いつものように祖父を訪ねました。私は「自分でも何か分からないけど、カッコイイ瓶のお酒」を、夕食の席で祖父に手渡しました。私が覚えているのは、祖父が「泡盛じゃないか」と言ったこと。「〇〇(私の本名)も飲むか?」と口を滑らせ、祖母に「そんなもん飲ませたらあかん」と叱られていたこと。それぐらいです。

もちろん、いけないことですが、今、祖父の血を受け継いで酒好きになった私は「あのとき、おじいちゃんの誘いに応えていればなあ」と、泡盛を飲む機会があるたびに、何度も思うのです。

祖父は、私が酒の味を知る前に、向こうへ旅立ってしまいました。私が大学へ入学して、ほどなくした頃でした。

祖父の葬儀が終わり、主を喪ってガランとした家の、寂しくくすんだ水屋に黄色いケースが山のように置かれていました。私が懐かしく「王冠」を撫でていると、叔父のひとりが「〇〇も飲めるようになったんか」と言ってきました。「まだ飲めないよ」と言うと、赤い顔で笑われて「栓の空いてないの、何本か持ってきてや」と言われました。「うん」と言って、何気なくラベルを見たとき、私は祖父が好きだって瓶ビールが「麒麟」だったことを、初めて知ったのです。

今、新型コロナの影響で、「リモート飲み会」が流行の兆しです。ですが、私が一番リモートしたい相手は、もうこの世にいません。田舎にある祖父のお墓は道沿いにあるため、実は「Google」のストリートビューで映すことが出来ます。しかし、周りにある他家のお墓も映ってしまうし、墓石にお酒を供えることも出来ない。少し虚しい気持ちのまま、ビューを閉じる。

だから私の「また乾杯しよう」は、早く「不要不急の外出」が出来るようになって、祖父の墓参りをしてあげることなのです。

#また乾杯しよう

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