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ニュース映画史・戦前/戦中まで(#1 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

戦前、戦中のニュース映画

一般大衆に訴求力の高いメディアとして、テレビがその地位を確立するまでは、映画が代表的なマス媒体でした。映画は、娯楽手段ですが、本編とは別に報道の役割として、ドキュメンタリー映画(あるいは記録映画)も上映されていました。それらが定期的に上映されるようになって、報道としての性質が濃い、ニュース映画が成立して行きました。
1908年に、フランスの大手映画製作会社であるパテ・フレール社によって、世界で初めて、長編映画の前に短編ニュース映画が上映されました。こうした定期発行形式のニュース映画は、その後世界各国に波及し、日本でも、大正3(1914)年に、教育映画製作会社だった東京シネマ商会により、「東京シネマ画報」が毎月2回製作されましたが、半年ほどしか続きませんでした。
また大正6(1917)年には、大阪毎日新聞と天活(天然色活動写真株式会社)大阪撮影所の提携で、「フィルム通信」という大規模な野外映画イベントが開催されました。これは近畿圏の地方ニュースを撮影し、週末ごとにそれらを野外上映する試みだったそうです。しかしこれも製作費が理由となり、2ヶ月で中止に終わっています。さらに、大正13(1924)年には、大阪毎日新聞社による「大毎キネマニュース」、東京朝日新聞社による「朝日映画週報」などが後に続きます。

これらは「ニュース映画」とは呼ばれなかったようですが、記録映画に対して、時事性と速報性が備わったもので、ニュース映画の原型と言っていいでしょう。私達の調査では、ニュース映画という言葉が初めて新聞紙面に登場するのは、読売新聞を例とすれば、昭和2(1927)年9月24日付の朝刊からで、そこでは欧米のニュース映画社の状況が述べられています。
国産のニュース映画が、劇映画に併映され、定期的に上映されるようになるのは、昭和5(1930)年の「松竹ニュース」からだとされています。
昭和5(1930)年5月11日付朝刊に、「ニュース映画全盛時代来る」との題目で、日活、松竹、日本映画会社がニュース班を独立させたとの記事が掲載されています。これらの映画会社に続き、昭和9(1934)年前後からは、朝日、読売、大阪毎日といった新聞社が、それぞれ映画部門をつくり、「朝日国際ニュース」、「読売ニュース」、「大毎・東日国際ニュース」というニュース映画を製作し始めて行くことになります。

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このように、日本では新聞社がニュース映画を発行したところに大きな特徴があり、それは戦後も報道、広報という役割として、ニュース映画が広く受け入れられた一つの理由でもあると言えます。こうした新聞社によるニュース映画の作成は、トーキーの発達もありますが、特に時代的にみて、日本の大陸侵攻が大きな契機となり、人々の関心にこたえるものとして期待されたのは明らかです。
さらに盧溝橋事件の取材撮影を契機として設立された、国策通信社である社団法人同盟通信社も、昭和12(1937)年にニュース映画「同盟ニュース」の製作に着手するようになって行きました。国産ニュース映画は4社の競作となり、さらに戦局への人々の関心もあり、内外のニュースに漫画映画などを揃えて上映する小映画館が東京、大阪を中心に多く生まれて行きます。日華事変が起こった昭和12、3年位をピークに、ニュース映画の最初の黄金時代が生まれたとされています。

しかし昭和14(1939)年に、悪名高い「映画法」が施行され、戦争の長期化にともなう物資の不足などを理由に、各社のニュース映画部門は、統合され、国策会社である社団法人日本ニュース映画社が設立されました。昭和15(1940)年にはさらに映画法の施行規則が改正され、全国の映画館でのニュース映画の強制上映が決定されることになります。
以後戦中にかけて政府や軍の厳しい検閲を受けつつ、ニュース映画は全国各地で上映され、「国策遂行に一役買って国民教育の向上を計る(読売新聞 1940年9月7日)」こととなって行きました。ニュース映画が、人々の求めるニュースを提供するのは、終戦とともにこの映画法の廃止からのことになります。

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