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22/9/20 「動植綵絵」初めて見た話+α

閉館前にあわてて撮ったポスター

若冲の「動植綵絵」、実物を初めて見た。
かつて大混雑した若冲展には行けなかったから、ようやく初めて実物を見られた。
で、いきなり所感を書き出す。

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若冲は特に濃彩において、絵に逃げ場を作らない。
じゃあほかの絵師は逃げてんのかとか、いや決してそういうんじゃないんだけど。
まず、絵の四隅のお話。抽象的な意味でなく、具体的に四角い絵の四つ角のこと。
ここに隙間があって空気が通っていればいいが、若冲は殊にごちゃっと盛り沢山の絵の場合、しばしば絵の四隅までモチーフをごちゃっと詰めて、埋めてしまう。私などはそれだけで、絵を見ていて、ごっちゃりに包囲されたような気分になる。溢れんばかりの花、葉、草、岩などさまざまなものに囲まれて、もうどこにも逃げることができない。
逃げ場はないが、その世界の中にあっては、生き物はすべて平等だ。だから、絵の中のすべてを、若冲は同じくらい真摯に描く。だから、すべてのモチーフが、同じくらいの存在感でこちらを向いている。

画面の中から、すべてが同じ勢いと鮮やかさで、目の前にせり出してくる。どーんとすべてがぶつかってくる。その勢いというか、熱もすごい。
そういう、どーんとくる絵の中に、丸がたくさんある。絵の中の丸が、みんな同じくらいせり出してきて、こっちを見ている。
若冲は集合体恐怖症ではなかったんだろう。大量のおたまじゃくしの群れ、花のおしべの塊、あらゆる集合の執拗な密度を、見るたびに思った。

「芦鵞図」の白い羽根の描き込みと、背景の水墨の奥行き。今回見た動植綵絵のなかで、いちばん奥行きを感じられたのが、この水墨の背景だろうな。
(梅の枝の、手前と奥で花の描き方を変えている絵もあったけど、それもよく見ないとわからないくらいには全部前に出てきていた)
かつて相国寺承天閣美術館で若冲の障壁画を見て思ったが、若冲は水墨できれいな奥行きと空気感、力強い空間を作り出せる。それ自体が素晴らしいのはもちろんのこと、それによって濃彩での空間そっちのけで全部こっちくる感覚が、ますます際立つのである。

気持ちの面でも、若冲は絵の前から逃げないように思う。
少なくとも絵の前にいる間は、ひとときも息を抜いていない気がする。

鶏がやっぱりすごい。羽根の描き込みはもちろんのこと、鶏のどこを見ても凄まじいが、今回は脚のリアリズムがすばらしく迫ってきた。下の方から絵を見ていて、目線が鶏の脚と同じくらいだったせいだろうか。単純な理由……
脚の指(爪?)が前と後ろに伸びる感じ、脚そのものの肉感。黄色い脚の鮮やかさ。うろこのような模様の細やかさ。その模様が脚の立体感をも描き出してしまっている。ものすごいこだわりと、ものすごい観察力で描かれた結果が、ものすごいリアリズムになってしまっている。それに気がつくと、絵の中で鶏の脚だけが、グワッと浮き上がってくる気すらする。
白のねっとり感へのこだわりもすごい。花も雪も、白いところは胡粉を丁寧に重ねて、ねっとりと透けている。
こだわりの塊ゆえに、これ本当に人が描いたのかよって思うような箇所もあるわけで、でもよく見るとやっぱり描いている。200年以上前、若冲の生身の手が描いたものなのだ。松の葉の先がはねるところ、蓮の葉の葉脈、そういうところに手で描いた実感が宿っている。こういうのはやっぱり実物を見て感じたいところ。
以前受けた絹本着色の体験講座で、動植綵絵「池辺群虫図」の部分を模写した。同じ絵の実物に出くわして、蓮の花の葉脈を、白緑で描くその質感に見覚えがあった。よかった、あの描き方で合っていたのか。若冲の描く精度にはまるで敵わないけど、ちょっと安心した。

あんなにも押しの強い絵で、ドンドン来られたのに、見終わる頃になるとあれっもう終わり!?まだいけますよ!?という気持ちになるから不思議だった。今回の展示は十幅でおわりだけど、三十幅いけるな。とか余裕ぶっこいて言ってて実際三十幅を前にしてぶっ倒れたりしたらどうしましょう。どうしようもない。
というか今回、動植綵絵の前はえらい混雑だったので(なるべく空いているようにと夜間開館で行ったのに!)ほとんど自由には動けなかったが、しばらく身動きがとれなくてもまったく見飽きないのだった。ぎゅうっと目を凝らして見るところが多すぎるので、どこに目を向けても目が離せない。
気力体力を使う絵ではあるものの、どっと疲れる絵ではなく、充実感が勝るのが意外であった。三十幅いったらわかりませんけど。どうしましょう。どうしようもない。

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という感じで動植綵絵を、列に並びながらまじまじと見て、終わってあたりを見回したら応挙先生の孔雀が真向かいにあったわけですが。結局応挙の話するんかい。
応挙だってめちゃくちゃ描き込んでいるのに、若冲を見てからだと、なんだかものすごく優しい絵に見えて(若冲が優しくないわけじゃないのだけども)、泣きたくなってしまった。難しい顔の若冲と向き合っていて振り返ったら応挙先生が穏やかな表情で立っていたみたいな。ついに幻影が見えるようになったか。
主役の孔雀はみっちり緻密だけど、絵の全体は風通しがよく、穏やかで、孔雀と牡丹と岩、それぞれの役割をそれぞれが全うしている。牡丹の花びらはひらひらと軽い。
描き込みがすごい絵ということでは同じなのに、やっぱり違う。でもどっちにもどっちの強みがある。

今回は時間がうまくとれなくて、展覧会を見られる時間が一時間くらいしかなかった。というわけで、もう思い切って動植綵絵に時間を費やすつもりで臨んだので、他の作品をあまりゆっくりは見れられなかった。あと前期の素絢と蘆雪を完全に見逃した。無念。
でも、蒙古襲来絵詞で、仕事で甲冑を描いたときに資料に載っていた絵が出ていて「あっお世話になりました〜〜っ」って思ったり、宗達の扇面を久しぶりにたくさん見たり、こんなにデカくてもいいのかと思うような絵に自由度を感じたり、明治の置物はやっぱり素直にすごかったりしたので、なんだかんだけっこう楽しんでましたね。列ができてて入る隙間もない絵があったのは残念でしたが……

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朝顔狗子図

ていうか同じ日に東博も行きましたね。
こちらも目当ては応挙の朝顔狗子図と蕪村の山野行楽図が出ている部屋、と決まっていたので、そちらを中心にゆるゆると。結局応挙の話するんかい!
朝顔狗子図、杉戸の色がどれくらい変わったんだろうなあと考えた。時間が経って、杉戸が濃い色になればなるほど、白い子犬がきれいに浮かび上がってくるでしょう。茶色の子犬も白い下地を塗って描いていそうだけど、今とは見え方が違ったのかなあとか。応挙先生はそこまで計算していたのかなあとか。

蕪村の山野行楽図に出てくる人全員好きなので全員写真撮った

あと蕪村と大雅が並んでいたので、ついその抜き方の質の違いについて考えたりとか。
大雅って絵に抜きはつくるけど、モチーフの形状そのものはわりとしっかりさせている気がするな。蕪村は形状からして気が抜けたような雰囲気で描く。そこがいい。どっちもいい。
でもこれまで、蕪村と大雅の違いって何度も結論づけようとして何度も覆されているので、今回も気のせいかもしれないな。結局は作家性として決着つけるしかないのかもしれない。

まあこちらもゆるゆる鑑賞でしたけど、椿椿山の花卉図がファンシーできれいだったりとか、室町絵画の部屋に以前見て好きだった仙女の絵が出ていたりして、うれしかった。
それから呉春の屏風が、国宝室に出ていて(国宝ではないけれど、秋の国宝展に向けてそういう流れになっているらしい)、これも山が霧にむせぶ、空間が気持ちよい、良い絵だった。欲を言えば、蕪村の隣にも並べてみたい絵だった。

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思いつくままに、若冲以外もそこそこ書いてしまったな。
余談ですが、この日は単行本の告知がある日で、そういえば漫画の連載が始まる日も千葉市美に行ってたことを思い出し、告知がある日に展覧会に行きがちではないか?と思った。
好きな絵を見ていると元気が出るし、緊張をごまかせるから良いのかもしれない。告知と準備はちゃんとしましょう。ちゃんとします。