20/03/07 前向きな狩野派の話

出光美術館の「狩野派 画壇を制した眼と手」をみてきた話です。
この展覧会、新型コロナウイルス問題により、3/1までで閉幕してしまいました。(予定では3/22まででした)
後期展示予定だった作品や、絵巻の巻き替え部分は出番をなくしてしまい、惜しいことです。

で、前向きな狩野派の話。
「狩野派」の展覧会って、正直、ちょっと前の自分だったら行かなかったと思うんですよ。
実際、以前にも出光で「江戸の狩野派」の展覧会があったのですが(ミュージアムショップで図録をみかけて思い出した)その時は行ってない。

狩野派、当時はまちがいなく主流でスタンダードなのに、今はわりと損な役回りになっちゃってるんじゃないかしら。
令和の現代、江戸絵画の人気者といえばすっかり若冲や蕭白ら奇想の面々、北斎や国芳ら反骨の浮世絵師たち、仙厓や白隠のアバンギャルドな禅画、それからオシャレな琳派とか、応挙先生のコロコロワンチャンとか。
実際私もきっかけはプライスコレクションなので、そっちの方から入ってます。
プライスコレクションといえば、出光が収蔵することになりまして、昨年話題になりましたね。あのときは死ぬかと思いました。
で、その「奇想」の代名詞ともいえるコレクションを収蔵することになった出光美術館での、「狩野派」。

突然の総括ですが、
安心感と安定感、そして肯定感で、とても心が洗われる、よい展覧会でした。

奇想や反骨やアバンギャルドが”主役”になった江戸絵画や日本美術ブームの昨今、狩野派をめぐって語られる言葉といえば、
「権力」だの、粉本主義による「形式化」だの、どことなくネガティブな含みをもってしまいがちです。
それはわたしが奇想や反骨の肯定側に立つことが多いからというのもありますが、
それらをポジティブに捉えた場合、狩野派はほんとうにネガティブになってしまうのか?

奇想や反骨やアバンギャルドを肯定する、その視点はあくまで現代のものです。芸術が爆発になってからの話です。
彼ら(今回の展覧会では、主に探幽以後の絵師たちだったと思いますので)の相手は支配者階級、有力者たちであり、時代は徳川です。安寧です。うつけの信長も金ピカ大好き秀吉ももういません。平穏な時代の御用絵師です。
先祖たちが築いてきた地位、権威、有力者とのつながりを守りながら、知識と技術を受け継ぎながら、描きつづけていかなければいけません。
しかも彼らはクライアントワークです。芸術が芸術として価値をもつ時代はもっと後です。爆発しているわけにいかないのです。(権力側がこのように安定志向なので、庶民の方が、だんだんと爆発を担うようになっていきますね。その根性も面白いです、もちろん)

さて、そうしてうまれた絵たちに向かい合うとき、
なんてしみじみと、心が落ち着き、安心感のあることか。
そうか、こんなやすらぎが、彼らの絵の力なのだ。

和漢の絵の膨大な蓄積、技術へのささやかながら心地よい挑戦のうえに、これだけ安定感のある絵を、確かな技術で描ける、見る人に安心を与えられるということは、やはり「力」ではないですか。

探幽の「叭々鳥・小禽図屏風」には、伝統の中に挑戦もみえました。鳥たちの周りの木や岩を描く、大胆な筆のかすれや墨のにじみ。屏風の大画面でその描写をする柔軟さ。探幽には、実力の上に柔軟性も感じられる。
その力の礎として、古画学習や粉本学習があるのだと実感せられる、探幽の「臨画帖」や、同じモチーフや画題に何代にもわたって取り組む姿。
粉本があり、形式があり、技術があり、それを受け継いでいったからこその安心、安定への結実、という、前向きな捉えかた。

奇想やアバンギャルドを肯定するとき、安心感や純粋な技術の高さはその対極とは限らず、在りかたのちがいとして、どちらも同時に肯定できるのだ。
おもいっきり余談ですが、「画を望まば我に請うべし。絵図を求まば円山主水よかるべし」(だったかな…)と蕭白が言ったという逸話などを思い出しました。この話、面白くてわたしも好きだけど、蕭白の破天荒な良さを認めることで、応挙の絵のおだやかな良さがなくなるわけではない。(実のところわたしはこの逸話のおかげで最初は応挙のイメージが悪かったのですが、今はご覧のとおりです)

と、ここまでが肯定感その一。
次、肯定感その二。

この展覧会、出品作品のうち、狩野派の作品は半分くらいでした。
では残りの半分は何かというと、狩野派が学んだ古画と、狩野派が鑑定した作品です。探幽などがしたためた、鑑定結果の札(外題や添帖というそうです)などが一緒に展示されたりしていました。
狩野派という権威とその情報量でもって、古画の鑑定も請け負っていたということなんですね。(そして絵の模写もさせてもらったりして、流派内でデータベース化していたらしい。WIN-WINってやつだ)
で、その鑑定結果は、やっぱり天下の狩野派だから信頼できるんですね?っていうと、どうも現代においてはそうでもないらしい。

……と、ここまでくると下手すると、「天下の狩野派がまちがってるってよ、やーいやーい」みたいな気持ちになりそうじゃないですか。えっわたしだけですか。鑑定団だって偽物で鑑定価格がだだ下がりすると笑いが起きるじゃないですか。
それはともかく、でもこの展覧会ではそういうことはありません。
それどころか、作者名の表記を、狩野派の鑑定結果と同じにしているのです。
伝牧谿、伝周文、伝雪村、などなど。
現代では、牧谿ではないかもしれない、周文ではないであろう、雪村だとは言い切れない、そんな作品でも。

で、その牧谿じゃないかもしれない絵や、周文ではないであろう絵や、雪村だとは言い切れない絵が、わるい絵かというと、全然そんなことないんですよね。いい絵なんですよ。
キャプションでは、ちょいちょい「ここが未熟、不自然」と突っ込みが入ってるんですが、わたしは素人だからあんまり気にならんのですね。
特にあの、伝土佐光信の四季花木図屏風、すごくよかった。モチーフのダイナミックさと装飾性、のびのびした空間構成。おそらく本当は作者不詳なんだけども、むしろ作者不詳のいいところがすごくあってよかった。(土佐派と鑑定した狩野派にとっては複雑な所感でしょうが…)

狩野派の鑑定がちがっているかもしれなくても、いい絵はいい絵として、ちゃんと存在するんですね。

今回、「本展覧会で初公開」の絵がけっこう見受けられたのですが、それはもしかして、この「狩野派の鑑定」の問題がためであったのかもしれません。
伝何某と、鑑定書が入っていたり、ときには絵の中にでかでかと書き込まれたりしているけど、実はその絵師ではなく、どこの誰ともわからない人間が描いた絵かもしれないということ。
それは確かに、ネガティブなことかもしれない。「やーいまちがえてやんの」と言う人がいるかもしれない。
でも、その絵はそこに存在し、その絵を描いた手が存在し、その絵を吟味した狩野派の目が存在する。
その絵を、狩野派の鑑定結果のまま展示するということは、狩野派の目への肯定であり、その絵を懸命に描いただれかの手への肯定だと思う。
誰が描いたのか、それが正しいのかどうか、それはもちろん大切なことです。
それはそれとして、まずはいい絵をいい絵としてただ肯定する、ただ味わう、
簡単なようで実は難しいかもしれないそんなことに、しみじみと幸福を感じました。

……とまあ、そんな前向きさが胸に響いたのは、
わたしが権威や主流に斜に構えたがる、揚げ足をとりたがるひねくれた人間だから、(そして実際、これまでは先入観により狩野派をみに行かない人間だったから)
実はこの展覧会をみて反省したのだなと、書いていて思いました。

出光美術館は、企画や、当時の価値観、作品のみどころを語る姿勢がいつも丁寧でありがたいなあと思っていたのですが、今回も間違いなく。
とりあえず、この美術館がプライスコレクションを収蔵してくれることへの安堵はひしひしと感じました。
秋にはプライスコレクションの展示、二回にわたってありますから、みんな行こうな。わたしも行くぞ。