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22/5/7 絵の整理の話

また昔の絵の整理をした。
ずいぶん前にも言ったけど。終わっていなかったのである。(そして今も完全には終わっていない)

存在ごと忘れていた絵が次々出てきて、いろいろな意味でこわくなる。
恐怖と嫌悪感で人をひきつけようとする、稚拙な絵がごろごろあって、自分で描いといて引く。今見ると、なぜこんな絵がいいと思ったのか。
じゃがいも1個とか、カップを布でくるんだものの鉛筆デッサンも出てきたが、その方がよほどいい絵で健康に思える。

その頃は、ただ花をひとつ描くだけでいい絵になるとか、
ただ花がきれいだとか生きものがかわいいとか、そういうのと同じ気持ちで絵を描いてもいいのだということを知らなかった。
だから仕方ないのかなとも思う。

それから、自分の性質も理解していなかったわけで、
世の中にはこわいものや猛々しいものを描いても、なんとなく穏やかになったり愛らしくなってしまう作家というのが一定数いて、おそらく自分はそっち寄りなのである。
(と、先日仕事で武将を描いたら「かわいい」というご感想があって思いました)(本人完全に無意識ですが心外ではなくうれしいです)
だから、無理に過激なもので刺激を与えようとしても、体質に合ってないな、という仕上がりになっている。

しかしそれも、実際描いていたから、今になってわかるのかもしれない。

***

絵を見ると、大学の時分、これを見て先生がなんと言ったかをわりと覚えている。
よくないと言われた箇所は、本当によくないことが、今見るとわかる。

でも、当時の自分は、よくないと言われたところがなぜよくないのか、ちゃんと考えなかった。下手なくせになんか無駄に根拠のない自信だけあって、指摘されたことを熟考しなかったのである。
よくないと言われたら、もっとたくさん絵をみたり、練習をしたりして、よくなさが理解でき克服できるまでちゃんと勉強するべきだった。
そんな舐めくさった奴に、先生はよくないところを丁寧に説いてくれたのである。
先生ごめんなさい。と今更思った。

***

キャンバスから絵を切り取り、木枠を処分することにした。
父に助けてもらって、木枠を切ってバラし、小さくまとめた。
釘などが残っていない木枠は、父が薪にすると言って回収した。薪ということは燃やすということで、燃やすというのはいい。しっくりくる。区切りとしてとても正しい気がする。でも、ふつうに処分するほうだって結局は焼却されるわけだからおんなじだ。
(しかし我が家に差し当たって薪を使う用事はない。父は何に使うつもりなのか)

木枠の片付けを終えて、手を洗っていると、頭の中で歌が流れていることに気づいた。もういない友達のことを歌う歌で、今はめっきり聴かないが、かつてはよく聴いていた。
その頃の絵を見ていて、何か頭の中で記憶がつながったのかもしれない。でも、どうつながったのかは思い出せなかった。