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19/12/17 清方をみた話

時々話すちょっとめんどくさいことを申します。(またその話かよと思われる向きもありましょうが)
「長田さんは日本画が好き」と言われたときに、ちょっと返答に困ります。「江戸時代までの日本の絵」は、だいたい無類に好きですが、明治以降の「日本画」には、好きなものとそうでもないものがあるからです。
なので、めんどくさい奴だなあと思いながら、言い直すこともあれば、そんな余裕もなくて笑ってごまかすこともあります。

でも鏑木清方の絵は好きです。

江戸と明治との間に、大きな変化があります。
それは絵に限らず、社会や文化、人間そのもののレベルでそうなので、絵もそうなるのは必然なわけですが。
でも江戸と明治の間も、完全にパラレルワールドなわけじゃないから、確かにつながって、地続きで生きているものもあります。
地続きの感覚がある絵もあります。

清方の絵はその地続きの感覚をおしえてくれるように思います。

「築地明石町」の公開を、最終日滑り込みでみてきました。
清方が生まれ育った土地の空気と、それをまとった女性の佇まい。
凛としたシンプルな立ち姿と、さりげなく添えられるその町の景色。
過ぎていく、でも確かにそこにあった江戸の情緒。清方はおぼえていて、繊細な筆が、その香りをたしかめるように線をひき、顔料を重ねてゆく。
清方の生きる世界で、世の中が変わったり、天災でこわされたりして、江戸の残り香は少しずつ失われてゆく。
清方がこの絵を、そしてたくさんの残り香をとじこめた絵を描いたのは、そういうことのためもあるんだろうと思います。

さて、この女性の立ち姿と、景色との絵づくりが、あまりにさりげないのですが、
さりげなく時間と空間を超越しているなと思うのです。
というのも、女性の足元には地面もなく、影もなく、景色はその背後にぽかんと浮かんで、ほんのり霞んで、
この人とこの景色との空間がつながっている保証はどこにもない。
でもつながっているように見える絶妙な距離感で描くんだなあ。

赤瀬川原平さんが「千利休 無言の前衛」で、
日本の絵に影が描かれないことは、光源がないことであり、太陽がないことであり、時間の移ろいがないことであり、それは「永遠」につながると、まあだいたいそんなようなことを言っておりましたが(非常にざっくりした書き方をしていますので、気になる方は本を読んでください)、
そうして限定しないことで無限になってゆく、
その時間と空間の超越が、日本の絵が日本の絵たる所以なのではないかしら。

そして清方の絵にはその遺伝子が流れ、とてもさりげなく超越している。

そんなことを思うと、「日本画風」なんて言葉も安易には使えないなと思うのです。
個人的には「日本画風」という言葉、ちょっと疑っています。
ちなみに「絵が漫画っぽい」も最近疑っています。同時におそれています。この話はそのうちしたくなったらします。

と、個人が日頃モヤッていることを、清方をみた話にするのもいかがなものか。

「初冬の花」という題の、煙草盆に煙管の灰をおとす瞬間の絵には、
描かれていない空間と時間に、灰をおとす音が、ぽんと透明に聞こえる。
もちろん、細やかに描かれた部分を楽しめる絵もたくさんあって、
「明治風俗十二ヶ月」のそれぞれの季節のしつらえ、「鰯」の街角の匂い、ちりばめられたものを楽しみながら、
でも清方の美意識のフォーカスしたところに、すっと入っていける。
ものすごくさりげないけどそういう絵づくりをしているのです。人物や景色や草花、小物の色や描き方のバランスが少しずつ違っていて、よくよくみると絶妙な絵づくりだなと改めて唸るのです。

そしてその足許にすっきりと広がる無限に、なんだかとても心持ちが軽やかになります。

などと、かっこつけたことを申しておりますが、
にしても大きいんでびっくりしましたね。築地明石町。と新富町と浜町河岸。
想像の1.5倍くらいあった。こういうのも実物をみないとわからないし、
顔料や墨の生で感じる良さも、実物をみて時々思い出さないといかんですな。

見つかってよかったですね。
長い時を経て存在して、また現れてくれるんですから、それこそ時間を超越してるってもんです。
絵というものは、そもそもが時間と空間を飛び越える可能性をもっているのだろうな。と思うと、日本の絵に限った超越ではないのだな。
超越の仕方の問題だろうな。
とか言い出すと、また長くなりそうですね。