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21/10/2 府中市美術館開館20周年記念「動物の絵 日本とヨーロッパ」の話

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内覧会に……行ってきました……

府中市美術館の内覧会にお邪魔できる日がくるなんて誰が……想像したでしょうか……
ありがとうございます……ありがとうございます……生きててよかった……
しかも「動物の絵」ですよ……去年の1年延期から……待ちに待った……「動物の絵」!!!開館20周年記念!!!
というわけで感想を書こうと思います。短めにしようとがんばってみたんですが、短くならなくてすみません。誰が読むんだよ。

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突然私事入りますが、だいぶ前の引っ越しの荷造り中、プライスコレクション(江戸絵画の沼にはまったきっかけ)をみた時のノートが出てきまして。その後どんな人生を歩むかまだ知る由もない自分が、呑気に「いちばん気になったのは長沢芦雪です」とか書いてんですよ。
そこに「動物がすごくかわいい。」と書かれていましてね。
そうか、わたしは「動物がすごくかわいい」から、蘆雪や江戸絵画をすきになれたのかあ、と妙に納得したりしたんです。
そんな自分が「動物の絵」展をみにきて落ち着いていられると思いますか。思いません。いつもながら前置きが長い。

そして今回、「日本とヨーロッパ」です。動物の絵、日本美術も西洋美術もです。
古今東西さまざまの動物の絵が集まって、通常は常設展になっている展示室まで使って、みっちりたっぷり大ボリュームの特別展です。

というわけで、チラシやポスター等々もご覧のとおりかわいいですし、
かわいい美しいパワフルな動物たちの姿に、感嘆したり、癒されたり、めろめろになったりするわけですが、
それだけの展覧会では終わらないのが、さすがの府中市美術館。

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展覧会の導入は日本美術で、いきなり若冲の象と鯨をばーんとみせられて、いやずるいと思いませんかこのトップバッター。いきなり話の流れを止める。
象と鯨図屏風、描線やフォルムの力強さに圧倒されますが、今展覧会で着目するのは、涅槃図に源流をみる静かな祈りの心。
淡いグラデーションで浮かびあがる、墨色の世界の静けさ。象の声や鯨が潮ふく音は、どんな風に響くのだろう。それは力強い声よりも、深く遠く、だれかを呼ぶようなせつない声のようにも思えます。
(最初がこの絵なのは前期のみですのでご注意を)

話を進めましょうよ。まだ1点目だよ若冲。
そしてずいずいと涅槃図や江戸絵画のいろいろな動物をみていって、フムフムいとおしいなあとか、永瀬雲山の龍虎サイコーだなとか思いながらみていくんですけど、
その流れで、ヨーロッパの絵は、初っぱな狩られた獣なわけです。
ショックですよ。いくら西洋と日本の動物観がちがうと頭でわかってはいても。
で、ヨーロッパでダーウィンの進化論が与えた衝撃について語りながら、猿と骸骨が向き合う絵が登場する。猿の、この、骸骨に向き合いながらもの思いにふけるような瞳、こんなんもう哲学じゃないですか。
(この絵の画家フォン・マックスはダーウィンの進化論に揺るがされ、猿の家族と一緒に暮らし観察していたことがあるそうです。と図録にあった)
動物にうやまう気持ちといとしさを抱いてきた日本、人間は特別としてきたがゆえに科学的真実に悩むヨーロッパ。

そしてヨーロッパの、風刺画での動物などみていくんですが、やはり「下のもの」とされることが多いんだな、と思うんですね。人間の世界で「劣っている」とされる人間を、動物にたとえていたり。動物の絵で、日本が描くのは「動物の世界」、西洋が描くのは「人間の世界」という解説も腑に落ちました。
また、動物は「意味」「役割」をもたなければ絵の中に登場できない約束事もあったと。いとしい動物を、いとしいから描くだけでは「芸術」にならなかったそうなのです。(これも図録にあった)
それにしても、この後の章でしたが、デューラーの「アダムとエヴァ」についていた解説などでは、動物の「意味」は負のイメージの役回りが多かったりして……不憫になるよ……(日本の縁起のいい動物がいっぱい良い意味を与えられているのをみるとなおさら……)

でも、日本の動物の絵ののびやかさに対して、
ヨーロッパでは動物は下で負のイメージで、硬い約束事の中で、役割として「使えない」と描かれなかったのか……という、ちょっとさびしい感じだけで終わるのかというと、そんなことはないんですよ。
長らく君臨してきたアカデミズムには重厚で知的なおもしろさもあり、その価値観が変わっていく中で、また新たな美が生まれていくおもしろさもあり。
一角獣やペガサスなど神秘的な生きものの崇高さ、動物の姿の美しさや面白さ(ポール・ジューヴの塊感はおもしろかったなあ)、
そしてもちろん、動物の生命そのものの尊さ、人と寄り添ってくらす動物の愛らしさ、健気さ、時には哀愁も描き……それらが展覧会をとおしてみればしっかりと実感できて、ほっとする。
この安心感も、展覧会初っぱなで「動物と人」の感覚が揺るがされるが故のものなのかもしれないな。日本の絵だって、ずっと変わらないわけではないし。

揺らぎと変化のなかにあればこそ、不変で普遍のいとおしさが沁みるのかもしれません。
昔の動物の絵をみて、遥かに隔てた時代のわたしが「かわいい」と感激できるというのは、すごいことだよなといつも思うんです。それは、絵のなかに込められた不変で普遍のものが、わたしの中にまでおそらく流れているのでしょう。
そして「骸骨の前の猿」の絵に揺らぐということは、当時のヨーロッパの価値観への共感も、自分のどこかに秘めているのかもしれない。西洋の「芸術」観がとっくの昔に渡ってきて、世界中の価値観が飛び交い混ざり合う現代の日本にあって。

西洋美術のラインナップ、豪華なんです。ゴーギャンとかデューラーとかモローにミレー(ミレーの猫かわいいです)、ルドンとかルノワールとかピカソとかマリー・ローランサンとかきてるんですよ。あとフジタも。すごいですね。もうこのラインナップ聞いただけで興味が湧いたら是非行っていただきたいですが、もちろんいい絵はビッグネームに限りませんからね。

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(美術館ロビーのパネルで小休止)

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江戸絵画もね、すごいんですよー。すいませんやはり趣味の関係上、江戸絵画のことも書かずにおれません。
一度みてみたかった絵ももう一度みたかった絵も、まったく知らなかった「なんだこの絵はーーー!!!???」もいっぱいあるんですよー。原煌って誰だよー。虎おもしろすぎるよー。
本でみていた上田耕冲の鳥獣戯画カラー模写は、ものすごく描写がきれいでびっくりだし(あの点のような目に釘付けになってしまう)、
原在明の猫は、2点出ていたけど、ほんとうに触れたくなるような毛描きでびっくりでした。猫好きに流行るのでは。じょりじょりしたい。
森狙仙の群獣図巻も、司馬江漢のオランダ馬図も、応挙先生の鯉も、久しぶりにみられてうれしいよー。よみがえるリアル展の記憶……。
江漢はもう1点象と馬の屏風が出ていましたが、こちらも良かった。ロマンがあって。江漢の油画には、やはり眼前に描きあらわしてみたいという夢みる心を感じる。オランダ馬図の遠景のおうちとか、あっこういう光で描き出せたらうれしいだろうな、という気持ちでみてしまう。空のきれいさとか、遠くまで見渡すような空気感とか。
蕙斎の鳥獣略画式も、もはや日常的にみているのに、改めてみると「こんなの描けねえよ……」と感服してしまう。あれほど大胆に、的確に、そしてチャーミングに省略するなんて、自分にはとてもそんな勇気は出ない。描かないことは勇気だ。と改めて思う。

蕙斎があった章「いろいろな動物、いろいろな絵画」のあたりで、造形的おもしろさをみせられ始めたせいでしょうか、だんだんテンションがあがって参りまして。
(伝)雪村の虎のフォルムの斬新さにビリビリしびれ、「いい絵」に対する凝り固まった思考が解放されていく感覚に興奮していたら、
そのあと来た蘆雪の鳥の絵の前で、感極まって涙ぐんでしまったのは内緒にしてもらえますか。
いや、あの、だって解説パネルに百鳥図のことが書いてあって、ああ百鳥図……鳥……蘆雪……蘆雪の鳥がみたいな……(連想ゲーム)とぼんやり思ってたらそこに、いるんですよ、蘆雪の鳥が。
しかもお花がたくさんで(蘆雪は花がうまいんだよ……本当にきれいなものが好きなんだな)、鳥もみんなきれいで、スズメちゃんがやっぱりかわいくてニコニコしていて。
しかも寛政十年と年紀が入っている。蘆雪はあまり署名以外の文字をみることがないので、たまに書いてるのみると「蘆雪ちゃんと生きてる……!!」と思って感激してしまう。すいません何言ってるかわかんないですね。
こんなの余計な知識なんだろうけど、寛政十年はその人生の後ろのほうで、その頃にこんなきれいな絵を描いていたんだと思うと胸がじんとする。白象黒牛図をみたとき、「おれはまだまだ描ける」と言っているような気がしたことがある。この絵を描いたときも、そんな風に思っただろうか。まだまだあと20年くらい描いてくれてよかったんだよ。
蘆雪の絵は、ほかにもいいのがいっぱい出ていてうれしかった。蘆雪の「動物がすごくかわいい」せいで沼にはまった自分大歓喜。

ちなみに、この蘆雪の向かいにある「鳥のコンサート」もすごく楽しい絵でした。エルミタージュ美術館にある作品の模写らしいのですが、それは後に図録で知った情報で、みているときはあんまり生き生きした絵なもんで模写だとは思わず(感極まってキャプションもろくに読んでない……)。
鳥の一羽一羽の真剣に歌う表情がとってもいい。ヨーロッパのリアリズムをもって描かれるがっしりしたユーモア。

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そんな具合で、内面と外面の両方で悩まされたり楽しまされたり興奮したりしみじみしたりしながら進むんですが、
最終章「愛おしいもの」で、動物愛があふれかえって締められるのです。
最後の「子犬の部屋」(!)の解説パネル冒頭で、「愛」ということばが出てくるのですが、そこで、もう、うん、そうですね!!愛だね!!!と大納得してメモ帳に「愛」と強めに書きました。愛だよ。
動物に愛情いっぱいのまなざしを注ぐ、日本とヨーロッパのさまざまな絵。胸がぽかぽかになる。

長谷川潾二郎の猫、たのしみにしていたんです。この章にありました。なるほど愛だ。
ぽてりとしたフォルム、真剣に追われる表情や模様、その猫のその猫らしさが、とてもいとおしい。その死によってヒゲが描ききれなかったという切ないエピソードもあいまっていとおしい。思ったより絵具がうすいんだな。うすい絵具をひと筆ひと筆丁寧に重ねて描いたんだろうな。
小倉遊亀の「径」も、実はみたことなかったかもしれない。現代の日本画らしいマチエルに、ふわふわとしたかたちの描写が心地よい。子どもと犬のしぐさもいいなあ。

そして、トリにくる「家光の部屋」と「子犬の部屋」……府中市美が切り開いてきた伝説がふたたび……
家光公、久しぶりでした。トップバッターがあの「竹に雀図」で、もうやられてしまった。上方にすきまがあいているのは、たぶん家光公には我々には見えない枠線とか見えてるんだと思う。
実物を真近にみると想像以上に竹も雀もへろへろで、いやこれは褒めているんですけども、心がほぐれます。そして表装がとても豪華。将軍様だから。あの絵でも。いやあの絵でもとはなんだ。
そして、兎と木菟のリアリズム。殊にみみずくの応酬。
紙の凸凹にかわいた墨をこすって、毛の「フワフワ感」を出しているそうで。そういう「あっこうすればフワフワが描ける!フワフワが描けた!!」という描くよろこびが、あまりに純粋すぎて、まぶしかった……。
なまじっか絵をたくさん描いたりなどすると、難しいことばかり考えてこういう純粋さを思い出せなくなったりする。けど、この気持ちってなくしてはいけないように思う。家光公ありがとう思い出させてくれて。

そして……子犬か……子犬ですな……
応挙率と蘆雪率がひときわ高かった子犬……宗達も仙厓も一茶もよかった……えのころ……
子犬レジェンド揃い踏み……すごい……えのころ……
もうなんか愛おしすぎて悔しくなって図録みながら「くそっ…」とか呟くくらいなんですが(なぜ……)、これらを全部「間近でみられるタイプの展示ケース」で味わえるという贅沢さですよ。あのガラスとの距離が近いやつ。
というわけで、応挙先生の描写を間近で追いまくりました!!
毛描きふわふわ!!目もとや鼻まわりにさす赤!!藤の花きれい!!白い子のぼてっとした描線にもしあわせが満ちあふれている!!愛!!!
蘆雪も蘆雪らしい地に足のつかなさというか、頼りなさにキュンとくる子が多くて愛しかったですね......
そして個人的に、応挙先生の子犬の目がずっと気になるので、めちゃくちゃ見ました。

仔犬観察

(文章にすると文字数ばかり使うのでとりあえず描いてみた子犬観察レポート)

かわいいもの、いとおしいものを描くことって、癒し効果があると思います。
応挙先生の子犬はじめ、描き手も「かわいいなあ」と思っていなければ、絶対あんな絵は描けないと思うんですよ。
そんな愛らしさが、己の手から生み出される瞬間の快感ってとんでもないと思う。みる方も癖になるけど、描く方も癖になるんだろうなこれはきっと。
とか、ちょっと真似して描いてみたりすると思うのでした。

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ふう……(息をつく音)
さすが開館20周年記念展、府中市美術館の集大成かつ真骨頂をみせていただいたような……気が……いたします……ありがとうございます……生きてて……よかった……

日本の絵とヨーロッパの絵とを絶妙に構成して、動物と人をめぐるいとおしさや悩ましさをおもしろくそしてわかりやすく楽しく(大事!)語り、そうして最後はやはり心がぽかぽかして締める、
そんな動物展であったのが、期待通り、いや期待以上でとても嬉しかったのでありました。

これから後期展示もありますね。図録にも気になる絵がいっぱいですね。
また相当様変わりするらしいですよ……何度でも楽しめますね……たのしみですね……