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20/10/14 そわそわする話

いろいろと、予想もしなかった出来事がバタバタ起きています。
バタバタ起きる中、先月はひとつ歳をとりました。ここ数年は、正月がくると「今年でいくつだなあ」と、もう歳をとった気になっており、数え歳の概念で生きているのかもしれません。数え歳というと、熊谷守一氏が著書で、「みんなで一緒に歳をとるほうが好き」というようなことを言っていたのを思い出します。
閑話休題、しっちゃかめっちゃかな今年も無事に歳を取ることができたので、しみじみありがたいです。歳とともに人間としても積み重ねられればもっといいです。ちゃんとレベルアップしたい。

今年に入ってから、いくつか今まで描かなかったものを描いていますが、
特に、何かをみて描く機会が多くあったなあと思います。もう振り返り。
普段も資料をみないと描けないモチーフばっかりなので、資料をみながら描くのですが、
ここで言っておりますのは、できあがった絵をうつすようなこと、模写というほどきっかりやってないですが、そういう感じのことです。
例をあげますと、3月に府中市美「ふつうの系譜」のレポをかいたときに、出品作品の絵を入れたりしてみましたが、
大好きで何度もみている応挙先生の仔犬ですら、図版をみながら自分で描いてみようということがなかったので、
描こうとしてみてみると、こんな感じなんだと驚き、そしていっこうに同じ顔に、同じふっくら感ころころ感(重要)にならず、苦戦しながらもたのしかったことを思い返します。

とにかくものすごく勉強になります。
今まで眺めるだけだったものが、どんな形なのか、どんな構造なのか、どんな色なのか、描くとなると認識せずにはおられず、
他の人の絵を真似るとなると、たいがい、自分ではやらないようなことを他の人はやっているもので、
描いたときのねらいとか、筆を置くときの感情とか、思いを巡らせずにいられません。
がっつり模写をしたわけでもないのにこうなのだがら、がっつり模写をしたらどうなってしまうんでしょうね。
あまりがっつり模写をやってこなかったタイプの人間なので、反省もしますね。

そしてこういうことをしていると、描くことに対してびびらなくなります。びびっているわけにいかないので。自分のやり方だけでやっていてはできないので。
写生の効能に(おそらく)近いものがある。応挙先生!
※上の一文は応挙先生と叫びたいがために書きました

自分の殻にこもって、自分のやり方だけで描いていると、
「こんなものを描いては自分の絵にならないんじゃないか」みたいな感情が、何かと湧いてくるのですが、そういうのも減る気がします。
以前はガチガチに自分を縛っていたので、モチーフにしろ画材にしろ表現にしろ、これじゃ自分の絵じゃないんじゃないかと、遠慮してばかりおりましたが、
年々そういうのも減って、漫画も人前に出せるようになったし、応挙先生の仔犬も人前に出せるようになったし、そのほうがずっとたのしい。
あと自分ではわかんないもんですけど、だいたいこういうのを気にしてるのって自分くらいで、他の人はあまり差を感じてなかったり。
それでも時々、まだこの考えがどこからともなくやってくることがあります。

でも自分でつくった枠に縛られて、そのとき描きたいものを描けないのは、
やっぱりちょっと損な気がするし、人生短いし、今年は無事に歳をとれましたけど、来年は、いや明日すらどうなっているかわからないし、
そのとき描きたいものは描いたほうがいいといまは思っています。

……というか、わたしの場合、絵はともかくとして漫画や文章のときに、
なにが自分らしいとか、自分の描くもののなにがおもしろいとか、
そういうのわかってんだかわかってないんだか正直よくわかってないなと、薄々感づいていましたが先日やっぱり確信しまして、
いや自分のいいと思うものや好きなものを描いていることには間違いないんですけど、どうも認識しきれてないというか。
そうなると、「こんなのは自分じゃない」みたいな悩みって、もはや無意味なのでは。

そんなことを言っているうちに、いま描きたいもののひとつくらい描けるんだろうから、がんばって手を動かそうな。
と、ツイッターでもつぶやいたのに、noteにも書いてるってのはどういう了見だ。

たぶん、がんばらなければと、そわそわしているんです。いま。