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19/01/23 扇の話

日曜までだったサントリー美術館の「扇の国、日本」を、土曜日の夜にみた。
展示前でやることもいろいろギリギリなのだけど、これだけはみたかった。ムンクは見逃しても。ムンクは見逃した。

改めて感じた、扇面の世界のふしぎについて。
まず直線と曲線である。絵が直線と曲線で区切られている。
絵の中の引力が歪む。水平線が弧を描く。水平な水平線の世界に生きる目から覗き込んでも、扇面の世界のなかでは、その弧を描く空間がごく自然である。しかしわたしたちの世界の水平線は、本当に水平なんだったかしら。

閉じた扇をひらくとき、時間の流れがうまれる。空間のひろがりが生まれる。絵を描く方もそれをわかっていて、演出したりする。絵巻や屏風もそういうところがあるけど、扇は一瞬で、そして小さい。掌サイズ。
そう掌、掌でひろげて見る。

先日、人と話していて思ったのだが、
わたしはどうやら、本や紙でできたものを、掌でひろげて見る、あのスタイルへの思い入れが強い。
自分のつくったものに対しても、そうやってみてほしい気持ちがどうやらあるらしく、
描いた絵や漫画も、パソコンやスマホの画面でみるのもいいし、原画を額に入れてみるのもいいけど、紙を掌でひろげてみてもらうのが、どうもうれしいらしいのだ。
扇面も同じスタイルでひろげてみられるな、と気づいて、なんだかうれしくなった。

婦女遊楽図屏風がよかった。浮かれて遊ぶ遊女たちのなかに、悲しげな人や訳ありげな人がいたりする。
扇の草子もよかった。扇面の絵と歌とをあわせて集めたものをそう言うんだそうだ。出ていたものはとても素朴な絵で、貴から賎まで、あらゆるひとに扇が身近であったことを感じてうれしくなった。
扇屋の店先を描いた屏風もあった。扇屋ではあらゆる扇をつくって、あらゆる人々に売ったそうだ。ひとつを大事にもっている人もいれば、たくさんもっている人もいただろう。
展示されていた、ある扇面貼交屏風は、ある人が集めた扇を貼り合わせたもので、六曲八隻という。貼りつけた扇面は合計240枚。聞いたことねえよ六曲八隻なんて。ひとりでそれだけ集められるくらい、数とバリエーションが豊かだったのだろう。たのしいだろうな。

扇面散らしや扇面流しというのがある。
風景や流水あるいは無の空間の中に、こっちをむいた扇面がたくさん散らばっている。そしてその扇面ひとつひとつのなかに、またひとつひとつの扇面の世界がある。
あの空間のふしぎさは一体なんなのだろう。扇面に限らず、時折屏風絵や襖絵で同じ感覚のものに出会う。たいがい作者不詳のように思うけど。
遠近、立体、重力、現実の空間とは明らかに一線を画していて、こんな風景は実在しないはずなのに、なにか迫ってくるような、取り囲まれるような、誘い込まれるような実感がする。
平面性、装飾性、絵の中にしかない空間です!と振り切って、でも気持ちいいでしょ、とあっけらかんとして、ポーンと立ちはだかっている、その潔さなのだろうか。
絵のなかの世界の自由さに、私はときにしずかに興奮してのたうちまわる。

記事のヘッダー画像にしたのは、
昨年末、ギャラリーMalleでの「坪田譲治にっぽんむかしばなし絵本展」に参加して、絵を描いた「姉と弟」という絵本の部分。
扇面をたくさん描けてうれしかったのでした。