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20/07/09 京都の展覧会に行くのをあきらめた分さんざっぱら応挙について喋る①

今年の1月からずっと円山応挙について考えています。

……などと書くと、標題とあわせて一定数の方が引くことと存じますので、ご遠慮なく見なかったことにして、戻るボタンを押していただければと思います。

標題のとおり、京都の展覧会に行くのをこのご時世であきらめまして、
展覧会に行くんだったらたぶんnoteに感想とか、いろいろ書くんですけど、行かないから結局書かないし、
そういえば、今年の1月からずっと応挙先生について考えてるけど、喋る人もいないし、そもそもこんなこと人に喋れるわけがないし、
でも1月からいろいろ考えたことを、どこかしらに発しておかないと忘れそうだし(もうだいぶTwitterに発散してるんですけど。いつもすみません。一時は本気で別アカウントを作ろうかと思いました)、
まあ京都の展覧会にもし行っていたら書く分だと思って、書いてみるか、という記事です。たぶんしっちゃかめっちゃかになります。そして私は研究者でもなんでもないので、私の見解はほぼ妄想だと思ってください。いつもの定型文ですが、読まなくていいです。自分のために書いているので。じゃあなんでnoteに書くんでしょうね。

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応挙先生への興味自体は、別に今に始まったことではないのです。展覧会で絵をみたり本を読んだりコロコロワンチャンに悶えたりしているのですが、でも昨年あたりは、ちょっと気持ちが凪いでいたんですよね。なんかそれどころじゃなかったというのもあるのですが。
しかし、前にもnoteにちょっと書きましたが、今年の1月、母校の図書館で、『円山應擧研究』に出会ってしまったのがいけなかった。
その『円山應擧研究』に、応挙先生と岸駒の、龍虎図屏風の合作が載っていたのがいけなかった。
え?岸駒って円山派に絶対影響受けてるよな〜とは思ってたけどこんな応挙先生と合作とかするほどの間柄なの……えっ……なかよしか……??って、なったのがいけなかった。事の起こりはそこな気がする。

『円山應擧研究』は佐々木丞平先生・佐々木正子先生の大著でありまして、
日本画科もなければ芸術学科もないうちの母校の図書館に、なぜ所蔵せられていたのか謎なのですが、図録編・研究編に分かれた重厚な本を開いてみると、図録編は図版がたくさんしかも見たことのない絵ばかり、つられて開いた研究編には応挙先生に関する興味深い情報が、ものすごい密度と精度で詰まっている。
1月の展示の会期中、たまに図書館に行っていましたが、半分はこの本を読みに行っていたようなもんです。
展示が終わってから母校に行かなくなり、まだ読破できておらず、本当は手元に置いてじっくり読みたいくらいなのですが、いろんな意味で一般人の私が所有できるスケールじゃないので、その一線は今んとこ超えてないです。今んとこ……

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で、この本のために(まだ読破できていませんけど)、
応挙先生や円山派(応挙門下)のイメージ、というものを、多方面からかなり衝撃的に実感せられ、塗り替えられました。
その衝撃の第一波が、おそらく岸駒と応挙の合作だったのだと思います。

その第一波を受け、え、岸駒って応挙門なのか?という非常に初歩的な疑問を抱いてページを繰っていると、
「円山派名簿」とも言うべき、大乗寺に伝わる書状の図版が目にとまりました。
ここには、もちろん源琦や蘆雪、長男の応瑞、呉春、などといった円山派の代表的面々の名が掲げられているわけですが、
(この書状は大乗寺デジタルミュージアムというサイトでもみることができます。ご興味あれば。)
(大乗寺デジタルミュージアムでは、円山派アベンジャーズによる障壁画の写真を空間込みで楽しめるほか、大乗寺に伝わる作品や書状もたくさんみることができます。応挙や応瑞の手紙もあり、応瑞が「呉(春)と駒(源琦)と長澤(蘆雪)の絵がまだできてません」と代わりに謝っている書状とか見られます。応瑞は本当に健気な息子です)(話が逸れた)
その名簿の中に、岸派の祖である岸駒、原派の祖である原在中、
さらには専業絵師ではない三井家の人物や植松家の人物(彼らは応挙のパトロンです)などが名を連ねているのでありました。

え、広いな。円山派。
思ったより間口が広い、幅が広い、円山派。

ほかの流派の絵師どころか専業絵師以外の名前まで、同じ列に同じサイズで(前後の順番くらいはありますけど)並んで描かれている様相に、少なからず戸惑ったわけですが、
本を読み進めていくと、「流派というより、画塾といったような」ものだったのではないか、ということが書かれていて、
なるほど!!と膝を打つと同時に、円山派の絵師たちの幅の広さが、ものすごく腑に落ちたわけです。

「流派」だったら、基本はその流派の作風を忠実に受け継ぎ、その流派の名前で、その流派の枠の中で仕事をし、描いていかなければならない。
でも「画塾」なのだとしたら、基本をその先生から学んで、その経験と技術を礎にして、それぞれの作風、生き方で描いていける。専業絵師になるのか、そうじゃないのか、ということも含めて。応挙先生の教え子として生きていくのか、新たな生き方を試すのか、ということも含めて。
(障壁画の仕事は、応挙を棟梁として門人たちでやったりもするんですけどね。そこは流派のメリットである)

応挙先生は自分の作風や技法も、ちゃんと教えているけど、
師の枠にはまらず突き進んだ蘆雪や、それぞれの得意なモチーフをもって身を立てていった弟子たち、新たな一派を築いた呉春や岸駒や原在中、という結果をみれば、決して自分の作風を押し付ける教え方でなかったであろうことが想像できる。もちろん、応挙先生の門人でありつづけた生き方も肯定しながら。

応挙先生はとても真面目だけど、真面目なだけの人ではない、
堅実だけど堅苦しいわけではない、ということは、展覧会や本でいろいろな絵をみるなかで、なんとなく知っているつもりでした。
しかし一派の祖として、師匠として、真面目なところは真面目に堅実なところは堅実にありつつ、
こういう柔軟性や、心の広さをあわせもっているとは。

そして、彼らを根もとでつなぎ、育てていった礎が、応挙先生が辿り着いた「写生」だったのか。

***

話は飛びますが、
応挙が三十代〜四十代の頃にパトロン的存在だった、円満院門主祐常という人の「萬誌」に、応挙に関する記述がたくさんあるそうで、その内のいくつかが『円山應擧研究』で解説されているのですが、
ここで応挙が、絵の師匠として(祐常も応挙の弟子だった)語っていることとして、
「真ヨリ草ニウツル良云々、草ヨリ真ヘ入ルハ不宜云々」
「看定画法、白日懸床而近鏡而可見、如見古画可見自画然時、差惣可照見、扨捨置、可再々見……」
「画学之事、雖有習法自学甚得有之、(中略)……不見物モ生物数品冩内自然ト図モ可出来、……」
とまあ、不勉強ゆえ憶測で現代語訳するのもあれなんで、そのまま書きましたけど(変換が大変)、
他にもいろいろあるんですが、こんなようなことを言っているのですと。

これを読んだ私
「デッサンの先生じゃん……」 ※個人の見解です

で、さらに、これは後日違う資料で読んだものですが、
門人の奥文鳴(おくぶんめい)が書いた「仙斎円山先生伝」(応挙の伝記)での、応挙先生の言では、
「豪放磊落気韻生動ノ如キハ、冩形純熟ノ後自然ニ意會スヘシ」
「蓋字ヲ学フノ法、楷ヲ先ニシテ草ヲ後ニス。畫モ亦扰カクノ如シ是我道ノ標本ナリ」

私「デッサンの先生じゃん……!!!」 ※個人の見解です

人によるかと思いますが、少なくとも私は、デッサンの効能というものを信じているタイプです。人によるというのは、必ずしもデッサンだけが絵の上達の道ではない、というのも含めて。
デッサンの効能、つまりデッサンに鍛えられることによって、技術面でも精神面でも、写実かそうでないかを問わず、画材や方法を問わず、さまざまな絵が描け、ものが作れる力が育つのだ、というアレです。

もしや応挙先生は、「写生」の鍛錬によって、
今でいうデッサンの効能と同じ効果を自覚し、それを実践し、自分の作品にも生かし、そして「先生」になることができた、日本で最初の人なんじゃないだろうか。

日本で最初かどうかは私の早合点かもしれないので、そんなに話を大きくするのもいかがなものかと思いますが。
(「写生」に注目した人は応挙先生以前にもいました。探幽とか。でも、本画にそれを直接に生かすことや、門人たちに伝授するところまでは、いっていないようです)
そして、デッサンという言葉を使うと、ちょっと語弊があるかもしれません。応挙先生の「写生」は西洋の「写実」とは違いますし、西洋的デッサンを実践していたわけではありません。どちらが上でどちらが下とか、先とか後とか、そういう話でもないです。江戸時代の応挙先生が西洋的デッサンの先駆けをしていたからすごいのだ!という話じゃないんですよ。そこは比較のしようがない世界ですよ。
ただ、自然界の、現実の形を写しとる鍛錬を積み、そこから絵の技術や精神を得たというところは共通していて、
そして応挙先生が、「円山応挙画塾」というような場所へ集まった門人たちに教え、各々の個性を伸ばしてきた根っこに、同じ効能があったのだとすると、ものすごくしっくりくるんですよね。
その精神のもとに、様々な門人を受け入れ、様々な生き方に広げていく心の広さ。

なんだか今まで想像してきたより、ずっと柔軟で、風通しがよさそうです、応挙門下。
そりゃバリエーション豊かになりますがな。

***

ちなみにこの門人たちの出自というのも、わりとバリエーションがあるなと思われまして、
蘆雪は淀藩士の家、源琦は京都の根付職人の家、呉春は金座役人、先述の奥文鳴は医者の息子、山口素絢は呉服屋、絵師の家に養子入りしたのに応挙先生に弟子入りした山本守礼、親戚に森狙仙がいるのに応挙先生に弟子入りした森徹山、北陸から上ってきた岸駒、あんまり書くと薀蓄たれるみたいで気持ち悪いですね。もう手遅れか。
その彼らのお師匠たる応挙先生は、もともとは丹波の農家の次男坊。

なんだかそれを思ったときに、じわじわと感動してしまいましてね。
武士も町人も、坊さんも、よいご身分の人もそうでもない人も、もともと農民の子で筆の力と生来のまじめさで一家をなした人のところに集まる、そういう環境があったのだ。江戸時代、十八世紀京都に。
格差が激しかった時代、内情はもしかしたら、やはり身分というものが意識されていたのやもしれないが、
それでも絵という世界のもとに、身分やいろいろな差がとてもフラットになっていく感じがして、なんだか嬉しい。希望を感じる。
いろんな意味で応挙先生は希望だと、わたしは思っているのですが、その話は改めてするかもしれないし、しないかもしれません。

ただし、応挙先生も人気者だけあってわりとdisられておるので、「とんと風流のない」だの「元来無学無筆」だのと言われたりもしているのですが、
うるせ〜〜〜悔しかったらテメーも農家の次男坊から平安人物志絵師の部筆頭まで昇りつめてみろやコラ〜〜〜〜〜〜って感じっすね(育ちが悪い)
と、小物の私は思ってしまうんですが、応挙先生はそんなこと口に出さず、ただ淡々と絵を描きつづけるだけなんだろうな。

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しっちゃかめっちゃかですね。ここまで読んだ奇特な方いらっしゃるのでしょうか。ほんとすみません。
そして題を①にしたけど②も書くんでしょうか。喋りたいことはまだちょっとあります、一応。

記事のヘッダーですが、2019年の春先に東博でみた応挙先生の絵の写真があったのでそれにしました。(題名などを失念してしまった……)
これを撮ろうとスマホを開いたら、挿絵のご依頼メールがきていて、わあ応挙先生!ありがとう応挙先生!とやたら喜んだのを覚えています……すごくどうでもいいな……