記憶の壺vol.1お絵描き

菜々ちゃん。過去の嫌な記憶を快い体験をすることで快い記憶に書き換えが出来る、と教わった。

菜々ちゃんは小学生の時、クラスでひとり、100点をとって、先生は黒板にテストの紙を貼って大きく100とみんなの前で書いた。菜々ちゃんはそれを恥ずかしかった、とお母さんに言い、お母さんは「誇らしい」と言っていた。お母さんはそんな小学生の頃の菜々ちゃんの姿をいつまでも覚えていたのだろう。菜々ちゃんにいつまでも勉強をさせようとした。いわゆる、国語数学理科社会ってやつ。それに英語が加わっていたら、菜々ちゃんは今頃日本語教師をしていたかもしれない。でも、菜々ちゃんが可愛かったお母さんは、菜々ちゃんに英語の勉強を続けさせたら、菜々ちゃんがひとりで海外に行ってしまう、と英語の勉強をやめさせた。

菜々ちゃんは進路を考えたとき、絵のスクールのスカウトのテストを受けた。わざわざ東京から長野までそのスクールの人が来てくれた。でも、菜々ちゃんはそのとき、とても強く「絵を描きたい」と思ったんじゃなかった。ちょっと描いてみたら、良い判定だった。菜々ちゃんは今でも覚えている。「絵の方に進みたい」と言ったとき「やい、家庭教師をやめたお前に出来るのか!」と言った鬼のようなお母さんの顔を。家庭教師はお母さんがかってにつけたじゃん、と言い返せなかったのは、18才の菜々ちゃんは疲れきっていたからだろう。

そんな風に菜々ちゃんの可能性は潰されてきた。菜々ちゃんは「言うことを聞く素直な子」と言われたが、結果は親の自我を植え付けられて自分が崩壊しかけた。菜々ちゃんは思う。もし、お母さんが生きていたら。1度だけでも「あんたなんか大嫌い」といってやりたかった。「お母さんが絵を反対したんじゃん」といってやりたかった。お母さんは歌ばかり謡だした菜々ちゃんに「お前は絵を描けば良い」と言って亡くなったから。

菜々ちゃんはやりたい、と思ったことができなかったまま30を過ぎた。秋元康さんが言っていた。「人は間違った道に進んだ、と思ったとき、どの地点まで戻れるかが大事」。菜々ちゃんは19歳まで戻ったつもりだった。でも、美術の専門学校には行けなかった。なんか気軽に絵を教われないかな、と、カルチャースクールに行ったけれど、立方体を描かされて超つまんない、と思ってやめた。

それなら、自分で練習しながら画材の使い方も勉強すれば良い。菜々ちゃんは一発勝負が結構行けて、絵も一枚目がうまく行く。でも、菜々ちゃん、練習しようと思った。菜々ちゃんの絵はリアリズムとは反対の絵。そのオリジナルで、菜々ちゃん、どこまで羽ばたけるだろう。

菜々ちゃんの相棒が「絵はどうしたの」「絵はどうしたの」と発破をかけてくれた。「絵を描くにはエネルギーがいる」と言い訳をしてnoteにポチポチ向かう菜々ちゃんだったが、近ごろ絵を描いている。今日は画材を買いにキムラヤへ行こうとしたけれど、朝から気が沈んだ。お気に入りの部屋で、ラベンダーを炊いておうちタイム。菜々ちゃん、お出掛けしたいな、という気持ちを心にもって、今日はどんな絵を描きましょうか。

菜々ちゃんは描いた未来を少しも叶えられなかったけれど、これからどんな記憶の書き換えが出来るだろう。

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