小林静三物語

カノンのおじいちゃんである小林静三おじいちゃん。長野県の戸隠で生まれました。第2次世界大戦で香港で囚われました。しかし「ホットウォーター」と口に出すと、味方だと思われ解放されて帰国の途に着きました。おじいちゃんは温かいお湯を飲みたかったんだと思います。帰国して長野の家に帰ると髭がぼうぼうで誰だかわからなかったそうです。

静三おじいちゃんは警察官でありました。TOKYOの中野警察学校の師範でありました。この事からもわかるように、とても厳格なおじいちゃんでありました。カノンがまだ幼稚園の頃、静三おじいちゃんと囲碁をして遊んでいました。カノンが1度置いた石を置き換えると「カノンちゃん、ずるはいけない」と咎められました。その声が厳しく、おじいちゃんの眼差しに攻め立てられてるようで、カノンはオロオロとしました。
しかし。優しいおじいちゃんでもありました。カノンにたくさん本を買ってくれました。埼玉に住んでいたカノンが静三おじいちゃんの家に遊びに行くとたくさんお菓子を買って待っていてくれました。静三おじいちゃんはコーヒーが好きで、朝御飯の後、朝の連続テレビ小説が放映される頃お茶をしていた記憶があります。

静三おじいちゃんは朝寝をよくしていました。警察官の頃の疲れが退職後出ていたんだと思います。カノンは遊び相手がいなく、ひとりで囲碁を出して遊んでいました。静三おじいちゃんが起きると一緒に本屋へ出掛けました。大橋を渡った向こうに平安堂があったのです。大橋は犀川にかかっています。橋のたもとから行くと遠回りになるので、途中の土手から柵を越えて橋に入りました。静三おじいちゃんは「こういうところは越えちゃいけないんだ」と言いながら、越えていました。その時静三おじいちゃんは渋々だったのかもしれません。

平安堂では静三おじいちゃんは本の中身をよく読んでから、「これをカノンちゃんに買ってあげよう」と選んでくれました。静三おじいちゃんが「何でも買ってあげるよ」と言ってくれたことがあったのを覚えています。それは私が小学3年生の夏休み。家族より先にひとりで静三おじいちゃんの家に行きました。途中の軽井沢まで迎えに来てくれました。その夏休み。駅前の東急のおもちゃ売り場のぬいぐるみの前で「カノンちゃんが好きなの何でも買ってあげるよ」と言ってくれました。私はウサギのぬいぐるみを選びました。その帰り道。バスで帰ったのですが、おじいちゃんは小銭を持っていませんでした。
1万円札を出す静三おじいちゃんに運転手さんは「次乗ったときでいいです」と伝えましたが、おじいちゃんはなんとも気難しい雰囲気だったのを覚えています。

厳格なおじいちゃんでしたが優しいおじいちゃんでもありました。そのおじいちゃんが倒れてしまいました。私とおじいちゃんの健康診断で日赤に行って、食堂でご飯を食べてさあ帰ろうとしたとき。おじいちゃんが頭を抱えてうずくまってしまったのです。私はこれは異変だ!と思い、食堂のスタッフさんに「看護師さんを呼んでください」と伝えました。おじいちゃんは脳溢血で倒れ、半身麻痺になってしまいました。けれども、おじいちゃんはその時のことで「カノンちゃんは命の恩人だ」と後々まで言っていたのです。

警察官であったおじいちゃん。心配性な面もありました。半身麻痺になって、今までのように長野の家で暮らせない。最初、私たちのいる埼玉の家に来ていました。しかし。母が外出中に心臓麻痺になったら心配だ、と具合が悪くないのに入院を希望して病院に入ってしまったのです。その後。特別養護老人ホームに入ってしまいました!25年も前ですが、そんなに介護が必要だったわけでもないのに入ってしまったのです。おじいちゃんは車イスに乗ってスイスイと歩けることが嬉しいようでした。しかし、入所者の人や寮母さんとうまくやれてたようではありませんでした。

おじいちゃんは電話で「バナナを持ってきてくれ」と言って、土曜日にハハと父と私でバナナを持って毎週お見舞いに行きました。「コーヒーを飲もう」と施設内のカフェでお茶をしました。おじいちゃんは警察官時代にバナナをよく食べていたのでしょう。帰り際、握手をしていましたが、おじいちゃんは家族と本当は一緒にいたかったのだとお思います。家族に会いたかったから「バナナを持ってきてくれ」と毎週電話をかけていたんだと思います。母は「寮母さんに頼めばいい」と小言を言っていましたが、おじいちゃんのキモチには全く気がついていなかったのでしょう。

特別養護老人ホームでは施設内でリクリエーションのようなこともありました。しかし。おじいちゃんは参加せず、俳句を書いていました。警察の上の方にいたおじいちゃん。子供に毛が生えたようなリクリエーションなんてするわけがありません。その事も母は「じいさんも一緒にやればいいのに」と言っていておじいちゃんのキモチに気がつくことはありませんでした。

おじいちゃんが亡くなった時。私は耳元で『カノンだよ。おじいちゃんご苦労様』と言いました。きっと届いたと思います。

私が中学生の時、おじいちゃんの話をしてくれました。子供の頃戸隠の家の様子、戦争の話。そして「カノンちゃん。おじいちゃんの本を書いてくれ」と言いました。私はその時心の中で『録音して無いのに書けないよ』と思いました。でも、おじいちゃんの本を書いてくれ、と言ったのには、おじいちゃんと一緒に本屋へ行って、おじいちゃんがよく本を買ってくれたこと。おじいちゃんはカノンはよく本を読んでいる、と思っていたから、おじいちゃんの本を書いてくれ、と言ったんだろうな、と思いました。

あれから約30年。おじいちゃんの本は書けませんが、おじいちゃんについて文章化する、と言うことをやってみました。おじいちゃんが倒れる前のこと。半身麻痺になってしまったこと。入所してしまったこと。

私は大学の卒業論文では高齢者施設について書きました。福祉の勉強をしてきた訳じゃないけれど、福祉について、私は考えていかないとな、と思います。


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