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管見談 チャットGPTで現代語訳 ②公儀-10


21.古い慣習が廃れていることへの嘆き

原文

 一、三十挺御鎗は大上院様御代元和九年御上洛の時、御先鎗三十挺御仕立になり清水内蔵に支配被仰付しか始なりと申、又昔よりありしとも申か、何れか本説なる事を知らす、
 山吉新八か支配頭を勤る時其三十挺の御鎗はとて僉議せしに是と云物なし、然るに紀州御前様の御道具なりと云御鎗塗柄に蒔絵をしたるか三十挺角の御蔵にあり、是より外に無しとて夫を三十挺御先鎗の分にして置たり、
 重定公新御殿江御引移りの時其内十五挺御借あり、御広間の御飾になされしに御火災の時焼失せり、小幡兵右衛門支配頭の時御鎗の不足を患ひ宰配頭山田十右衛門か方へ行仕立を願度と云けれは、十右衛門か云様、其事ならハ某聞置たる事あり、先年隣家の笠原故新五兵衛咄に、三十挺御鎗ハ江戸御上下の時二十挺の御先鎗か是也、十挺は麻布の御蔵にあるなり、新八は詮なき事をせしと云キ、然は是を僉議させられよと云故に、兵右衛門其事を詮議せしかは相違なかりしとなり、
 又御家中の鎗印ハ覚上院様御代被仰出て朱紙を付る御法也と云り、今ハ種々好に任する事になりたり、
 又昔ハ脇差ハ皆短刀なり、後世長劔になりても貴人の前へは長劔を忌故、古礼を遺して礼式の時は短刀を用る也、然にケ様の事も古礼を失ひ今世は小尻を平めたるのミにて、則長劔を用る事になりたり、短刀何の詮もなき事なり、
 又侍組江中屋敷下屋敷を賜るハ家来置地場に賜りし故、昔は家来か減れは其跡地は年貢を召れし事なりと云り、然るにいつしか譜代の家来ハ一人も持さる者にも屋敷は其侭賜りしより、今は御城代御小姓頭なとへは屋敷を菜園地に賜る事になりたり、箇様に古実の廃れし事何程か有るへきなり

現代語訳

 一、三十挺(さんじってい)の御槍(おんやり)は、大上院様の御代である元和九年、御上洛(ごじょうらく)の際に御先槍三十挺が仕立てられ、清水内蔵(しみずくら)に支配を任されたのが始まりであると言われています。また、昔から存在していたとも言われ、どちらが本当なのかは定かではありません。
 山吉新八(やまよししんぱち)が支配頭を務めた時、「その三十挺の御槍はどれか」という議論がありましたが、これといったものが見つかりませんでした。しかし、紀州家の御前様の道具であると言われていた蒔絵の塗柄を施した槍が三十挺、角の御蔵にあり、他にそれらしいものがなかったため、それを三十挺の御先槍として扱うことにしました。
 重定公が新御殿に引っ越された際、そのうちの十五挺を借りて御広間に飾られましたが、火災の時に焼失してしまいました。小幡兵右衛門(こばたひょうえもん)が支配頭を務めた時、槍が足りないことに悩み、宰配頭の山田十右衛門(やまだじゅうえもん)に製作を依頼しようとしましたが、十右衛門はこう言いました。「それなら、以前に聞いた話があります。隣家の故笠原新五兵衛(かさはらしんごへえ)の話では、三十挺の御槍のうち、江戸で御上下(ごかみしも)の際に使われた二十挺が御先槍であり、残りの十挺は麻布の御蔵にあるとのことです。新八が余計なことをしてしまったのだ」と。そこで兵右衛門は調査を行ったところ、その通りであったそうです。
 また、御家中の槍の印は、大上院様の御代に定められたもので、朱紙を付けるのが正式な作法であったと言われています。しかし、今では各自の好みに任されるようになりました。
 昔は脇差(わきざし)は皆短刀(たんとう)でしたが、後の時代には長剣になりました。それでも、貴人の前では長剣は避けられるため、古来の礼を守り、正式な場では短刀を用いていました。しかし今では、古礼を失い、小尻を平らにするだけで、長剣を用いるようになりました。短刀は何の意味も持たなくなってしまいました。
 また、侍組に中屋敷や下屋敷を賜るのは、家来を置く場所として与えられたものでした。昔は家来が減れば、その土地は年貢を徴収されるものでした。しかし、いつの間にか譜代の家来を一人も持たない者にもそのまま屋敷が賜られ、現在では、御城代や御小姓頭に至るまで屋敷を菜園地として賜ることになりました。このように、昔のしきたりが廃れていくことは、いくらでもあることでしょう。


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