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#116 生と死2 死を大きな「いのちの流れ」で考えたら、怖さが溶けた話

前回、保育園時代に、鶏をしめるのを目の前で見て、裁く経験をしたことや、羊をいただく会に参加したときのこと、そして、その後動物をいただくことについて見方が変わったことについて書きました。

そして、先日、学びの中で、生と死についてのトピックがありました。私たちは今、死ぬと焼かれて骨壺の中に入り、お墓のなかにしまわれますよね。
それって、自然に還ることなく、巡らずにずっとそこに隔離されているのって、なんだか寂しい、って思っちゃったんですよね。

死んだ後のことについては、臨死体験をした方の手記などはあるものの、正確なことは誰も分からないですが、私は、死んだあとは、魂と肉体と、それぞれについて循環するのではないかなーと考えています。

日本古来の、生まれ変わりという考え方や、輪廻転生にもあるような、魂は生まれ変わりがあるのではないかなと思っています。そう考えた方が幸せ、と考えたらいいことで、正しい間違っているなど、議論するつもりはありません。私は、人は人に生まれ変わるという考え方が好きで、生まれる前に人は課題を設定してきて、その課題を忘れて人の体に入り、人生をかけて体験をしていく、と考えます。人じゃないものに生まれ変わるという考え方や、生まれ変わりはなく、死んだらそれっきり、という考え方もありますよね。

魂については色んな考え方があると思いますが、肉体については、物質的なものではありますが、死んだあとどうしたいかは、これもまた人それぞれですよね。都会に暮らしていたころはあまり深く考えたことなく、ホッとできる家族と一緒のお墓に入って、子孫に見守ってもらえたらいいなと、多数派の考え方がそのまま自分の考え方になっていました。

けれど、今は、自分の体が朽ちたあと、生き物のことわりに従って、巡って、豊かな循環につながっていったら幸せだな、と思うようになりました。焼かれて、壷に入って、物理的にも隔離されるのではなくて、食べ物を食べて消化したら血肉になるように、コンポストに入れた生ごみが土になっていくように、いのちの理屈にしたがって、何か違う物質に生まれ変われたら。

とはいえ、今の日本では、衛生観念上からも、焼くか、土葬がもし認められたとしても地下深くというルールがあったりなど、コンポストや動物の亡骸のように、ハイ循環してね、というわけにはいきません。そしたら、焼いた骨をまいて、山の一部になるか、海に溶けるか。今の私なら山かな。なんて思ったりします。

死ぬのが怖いと思っても、私たちの寿命なんてせいぜい100年。地球は46億年続いてきているし、人類は600万年?も続いてきているのだから、きっと、私たちが死んだとしても、いのちは続いていく、つながっていくのだと思います。たとえ地球が終わったとしても、その破片はまたどこか、宇宙を構成する部分として存在していきますよね。

それなら、死ぬことを恐れるのではなく、与えられた一瞬の「生」を気持ちよく生きていこうではないか、という気持ちになります。

そんなことを考えることがあって、そしたら、昨日の記事に書いたように、動物の死についても、身近な人の死についても、少し怖くなくなりました。91歳の祖母と同居していて、まだ元気ですが、あと10年は元気でいられないはずの祖母。けれど、死はみんな来るもの。いつか来るかもしれない死を恐れるのではなく、今一緒にいられる「生」を、思いっきり生き生きと、ともに歩んでいけたら、と思って日々過ごすようになりました。

そしたら、今まで怖かった、気持ち悪くて、触るなんて考えもしなかった動物の亡骸を、「生をまっとうしたんだね。交通事故にあってしまって不運だったね」と、土に移してやることができるようになっていた自分がいました。

亡くなって、鳥につつかれて足の肉がむき出しになり始めていたアナグマは、気持ち悪いケモノではなく、ふさふさした毛皮に包まれて固く冷たくなった、つい何時間前かまで生きていた尊い地球の構成員。
安らかに眠り、土に還れますように、と、一瞬に祈りを込めて、アナグマを横たえました。

亡くなった動物に触った、たったそれだけのことでしたが、忌むべきものだった死が、大きな流れの中に戻っていく、ひとつの区切り、ととらえるようになった自分の変化に気づきました。

忙しい毎日の中に、ついつい忘れてしまいがちな、死の概念。
死を思い、大きないのちの流れを思い、それを忘れずに、日々大切に生きていきたいと思いました。

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それではまたお会いしましょう!

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