見出し画像

3.11とJリーグ

 今年は新型コロナウイルスの感染拡大で追悼どころではなくなっているが、もうすぐ3.11から9年になる。当時のことを振り返ってみる。

 翌日にJ1第2節ホーム川崎戦を控えた、2011年3月11日金曜日の14時46分。尋常ではない揺れであることはすぐにわかったが、この時点で東北沿岸を中心に大津波に襲われることは想像できなかった。その日の夜は、宮城県気仙沼市の火災映像を見ながら、地元の岩手県大槌町の情報が入らないことに焦りを募らせたことを覚えている。

 当時、釜石市の中学に勤務していた妹は、学校がそのまま避難所になり、連絡がついたのは1週間後だった。J1は第1節を消化したところで即刻中断した。正直サッカーどころではない。3月29日に長居で行われた、日本代表とJリーグ選抜のチャリティーマッチを、上の空で見ていた。J1が再開するまでの間に、初めて地元に入った。そのときmixiに書いた日記を最後に転載したので、興味がある方はご覧ください。

 迎えた4月23日土曜日、J1再開の日。天候はあいにくの雨。気が進まず、国立に向かう足取りは重かったが、そうした気分はキックオフ直後に吹き飛んだ。自然に興奮し、自然に声が出る。鹿島に3-0で快勝。野沢のオウンゴールと同時に試合終了という、忘れられない試合になった。試合後は仲間と飲んだ。笑った。カシマスタジアムがしばらく使えなくなった鹿島サポには、また違う思いが去来していただろうことは付け加えておきたい。

 自分はこの日、サッカーに救われた。今でもそう思っている。2011年と同列には語れないかもしれないが、今季も長い中断がJサポを苛んでいるのが伝わってくる。待つしかない日々。再開したら、自分はまた、サッカーに救われたと感じるだろう。

 以下に紹介するのは、2011年のサッカー日本代表チームチップスに付けられた、Jリーグ選抜のカードである。横浜からは、中澤佑二と中村俊輔が出場した。

AO-17 中澤佑二

画像1

AO-19 中村俊輔

画像2

以下、震災の内容を含みます。ご了承の上でご覧ください。

故郷よ
2011年04月03日17:35

 以下長文につきご了承ください。

 金曜日の夜に新潟の妻の実家に移動し、土曜日にお父さん、お母さんと4人で大槌まで車で行ってくることになった。朝5時に出発。秋田の由利本荘まで北上して横手に抜け、秋田道、東北道、釜石道、国道283号、仙人峠道路を経由し、釜石からは国道45号を北上して大槌を目指す。 

 岩手に入り、内陸部では当然ながら震災の痕跡は何も見られない。途中のSAでは給油を緊急車両限定にしているところもあったが、遠野では特に給油に困ることはないらしい。途中多くの自衛隊の車両とすれ違う。遠野にも前線基地ができていた。仙人峠道路の終点が近づき、もうすぐ釜石というところで渋滞してきた。休みを利用して被災地に入る人や、内陸で買い物してきた人が多いのだろう。

 ようやく釜石に入るが、海から遠い側では震災の影響は感じられない。中心部が近づき、釜石駅が見えてくると風景は一変した。道路は通行可能だが、両脇には瓦礫が積まれたまま。見慣れた商店街は1階部分が壊滅状態。テレビで映像を見ると、釜石の中心部の被害は比較的軽いように思えたのだが、とんでもない。1階があれではすべて解体するしかない。信号も止まっているため、応援に入った警視庁や兵庫県警の警察官が交通整理をしている。

 釜石と大槌を結ぶ国道45号は、途中両石付近が未だ通行止。震災の直前に部分開通した三陸道が、迂回路の役割を果たしているのは皮肉に過ぎる。鵜住居、片岸地区には何もない。堤防が決壊しているのが見える。JR山田線の路盤や鉄橋が流出し、線路を流れてきた家が塞いでいる。古廟坂トンネルを抜けるといよいよ大槌だ。

 シーサイドタウンマストや公共施設など一部を除き、国道45号のバイパスから海側は更地のようにになっていた。これが生まれ育った大槌か。写真で見るのとはインパクトが違う。中心部はまだ通行止。母が避難している叔母宅に急ぐ。妹も避難所になっている釜石中から一時戻っていた。電話で声は聞いていたが、ようやく家族や親戚と顔を合わせることができた。生きていてよかった。それしか言うことがない。

 お父さん、お母さんと共に、叔母宅から徒歩で実家に向かう。津波は叔母宅の手前まで迫っていた。当日は川を流れる車や家が見えたという。道路の両脇には、家や車だけでなく船や漁具、水門の一部までが放置されており、海から遠いのに潮の臭いがする。風が乾いた泥を巻き上げ、土埃が歩みを阻む。それでもどうにか我が家にたどり着いた。

 Googleの空撮写真で、実家の建物が無事らしいことは確認していたが、叔母宅同様、被害は実家のわずか数軒下にまで及んでいた。実家のある集落だけがポツンと残されたように助かったのだ。途中で○に×が入った記号が赤で描かれた家や車を多数見かけた。その記号は、遺体が発見されたことを意味する。記号は捜索が進んだここ数日に急増したという。周辺では仮設の鉄塔が建てられ、電力の復旧が進んでいるが、実家はまだ停電したままで、泊まってもらうわけにもいかない。しかし、建物が奇跡的に無事だったのだから、後回しでも文句は言えまい。

 地震後、海に近い人ほど即座に避難したという。まさかここまでは津波は来ないだろうと考えた人の多くが、犠牲になった。役場近くに住む伯父夫婦は、孫を連れてすぐ避難したため、難を逃れたのだった。現在は一時内陸に移っている。

 世間の関心は主に福島の原発事故だろう。収束には数年から数十年はかかると言われている。東北沿岸地域の復興にも、同じくらいの時間がかかるだろう。原発に対する政府と東電の対応にまったく不手際がなかったとは言わないが、多数の素人評論家がああだこうだ喚き散らすのは滑稽なことだ。原発の対応は専門家に任せるしかない。自分は故郷のことしか考えられない。

 滞在時間わずか2時間だったが、行けてよかった。会えてよかった。今回行くことになったのは、新潟のお父さんお母さんが声をかけてくれたおかげ。たくさんの食料品も用意してくれた。心から感謝したい。これで自分は、ようやく前を向ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?