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エヴァの呪縛は解かれたが、卒業しろとは言われてない

前回の記事で長くなるとしてやめた、シン・エヴァが"エヴァを卒業しろ"と言ってない理由ですが、整理してみたら全然長くなかったので書かせていただきます。

※物語の核心にはほとんど触れてないつもりですが、ネタバレの危険は十分ありますので未視聴の方はここで引き返してください。

まずハッキリ断言しちゃいますが、庵野秀明はエヴァを作品として完結させてそっとエヴァの呪縛を解いただけで、エヴァを卒業しろとは一言も言ってません。「エヴァを卒業する」というのが非常に曖昧な言葉ではありますが、少なくとも"卒業しろ"といったニュアンスのメッセージが込められてないことはたしかでしょう。

まず簡潔に理由を言うと、シン・エヴァは非常に肯定的な映画だからです。肯定的な映画であるというのは、ストーリーが前向きとかハッピーエンドとかいうだけではありません。観客の様々なエヴァへの姿勢を肯定的に受け止める映画であるということです。本当かよって言われてしまうかもしれませんが、肯定的な映画でないとエヴァを終わらせることはできないのです。

僕は旧劇を否定的な映画だと思っています。少なくとも、(当時の)観客に対して肯定的な映画ではないでしょう。これは旧劇を批判しているわけではなく、あくまで旧劇の感想・印象の話です。で、結局その旧劇ではエヴァは終わりませんでした。正確には終わらせなかった、だと思いますが。とにかく旧劇で終わらせずに新劇を始めた以上、ここで否定的な映画をやっても同じことの繰り返しになります。なので新劇としてエヴァを終わらせるには、観客へのアプローチを変え、肯定的な映画にするしかないのです。("卒業しろ"は否定的なメッセージだと思ってます。少なくとも一部の観客に対して。)

エヴァは人によって大きく異なる作品です。これは実際に作中でもエヴァ・イマジナリーとして表現されてました。このそれぞれのエヴァを否定することなく受け止め、全てのファンの着地点(足場?)になる(もしくはなろうとしている)映画が今回のシン・エヴァです。これは、観た人全てが納得・評価する映画という意味ではありません。

つまりシン・エヴァは、卒業しろとかそういうメッセージを押し付けることなく、"作品としてエヴァは完結するけど、これからみんながエヴァにどう接していくか(卒業するかしないか)は自由だよ、バーイ"っていう映画なんだと僕は思ってます。

もう一つ言うと、肯定的というのはエヴァの終わらせ方そのものにも言えます。作中で、委員長はレイに"さようならはまた会うためのおまじない"だと教えるわけですが、これはほぼ確実に、今回エヴァが終わることに対してのメッセージでしょう。"また会えるよ、オタクくん"的な。まあ、庵野本人がエヴァを通してまた会いたいと本当に思ってるかどうかはさておき、この作品のエヴァの終わらせ方が肯定的で前向きなのはたしかです。

ということで改めて、シン・エヴァに"エヴァを卒業しろ"というメッセージは込められてません。何かメッセージが込められてるとしたら、"今までありがとう"とか"また会えるよ"ってな感じだと思います。なので、"俺のエヴァは終わらねぇ!"って世界の中心で叫んだとしても、きっと庵野はかなり苦い表情で見守ってくれることでしょう…。終劇。


何だか庵野にデレたような記事になってしまいましたが、僕は常日頃から庵野秀明というクリエイターに対し、厳然たる態度で挑んでおります。自分でも書いてて意味が分かりませんが、何と言うかまあ、"庵野秀明のことなんか好きじゃないんだからね"ということです。

めっちゃ話が変わりますが、サムネ画像のシンジの表情が父ゲンドウの半身に向けられてたものだと考えると、腐女子も顔面蒼白な業の深さじゃないですか?

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