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「競馬の歴史」を学ぶ ~無敗の牡馬2冠馬 昭和編~

はじめに

2020年春のクラシック戦線は、牡馬・牝馬ともに「無敗の2冠馬」の誕生に(無観客開催でこそあれ)大いに湧きました。
1964年(シンザンとカネケヤキ)、1975年(カブラヤオーとテスコガビー)が、半世紀近く経った今でも「牡・牝2冠馬の世代」として、セットで記憶されることがあるように、2020年(コントレイルとデアリングタクト)も、2頭の春2冠馬のことが、長らくその活躍が語られ続けるものと思います。

(※)無敗の牝馬2冠を達成したデアリングタクト他は、↓の記事を参照。

ここで注目すべきは、「クラシック2冠馬」がどちらも【無敗】で達成されたという点ではないでしょうか。やはり【無敗】という言葉及び成績の持つインパクトというのは、それ以外とは印象が全く異なるように思います。

無敗での牝馬・春2冠が史上2頭しか居ないのに対し、牡馬の春2冠馬は、史上7頭いまして、いずれも歴史を超えて語り継がれる名馬たちです。
今回は、偉大なる人気馬たちと並ぶ快挙(無敗での牡馬クラシック2冠)を達成した【コントレイル】と、その先輩馬達について紹介していきます。

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0.1950年以前

「牡馬クラシック3冠」競走と言えば、現在の名称で言う所の①皐月賞、②東京優駿(日本ダービー)、③菊花賞 の3レースを指し、全てを勝利すると一般に「三冠馬」と称されます。
このうち、菊花賞は名前の通り秋に開催され、残る2レースが春季に開催。この記事では「春2冠」などと呼ばせてもらいます。

クラシック三冠レースが出揃ったのは1939年(昭和14年)で、1941年には、史上初の三冠馬「セントライト」が誕生していますが、ダービーの2走前を2着と敗れているため、無敗での三冠達成ではありませんでした。

また、戦前の名牝、生涯無敗の「クリフジ」も、ダービー・菊花賞の2冠を達成していますが、「脚部不安で皐月賞には間に合わなかった」ことから、春2冠を達成することはありませんでした。

昭和20年代は急に「クラシック2冠馬」が次々誕生する時代に移り変わり、1950年の「クモノハナ」が、戦後初めて「皐月賞→ダービー」の2冠を達成します。しかし、初勝利が8戦目だったことなどからして、今回の記事では多く語らず、続く1951年へと参りたいと思います。

1.(1951年)トキノミノル

もはや伝説として語り継がれている、10戦10勝「幻の馬」トキノミノル。

伝説エピソードが多すぎて、各自お調べ頂ければと思いますが、

・馬主は映画会社・大映の社長であった永田雅一氏
・特に命名もされず、幼名だった「パーフエクト」で登録
・「日本レコードタイム」での鮮烈デビュー(新馬戦)
・この結果を受けて「トキノミノル」と馬名変更
  ↓
・無傷の8戦全勝で「皐月賞」に出走し、完勝
 (単勝支持率73.3%【歴代1位】、レースレコードを6秒1更新!)
・しかし皐月賞翌日に歩行異常、ダービー前週に「裂蹄」を発症
・出走辞退も検討するが、ダービーの当日朝なんとか出走可能な状態に
・7万人の大観衆の期待に応え、10戦10勝無敗のダービー馬に
・「三冠確実」「三冠馬になった海外遠征」との機運が高まった矢先、
 ダービーの僅か2週間後に『破傷風』を発症、
 ダービー優勝の僅か17日後に10戦全勝のまま急死。
・その死は、一般紙でも取り上げられたことに加えて、
 作家・吉屋信子が『幻の馬』と追悼文を寄せ、代名詞的表現に。
  ↓
・1955年、永田氏により映画『幻の馬』が製作・公開
・1966年、東京競馬場に現在の「トキノミノル像」が設置
・1969年、(現)共同通信杯に副題~トキノミノル記念~が付けられる
・1984年、(第1回の選考で)「JRA顕彰馬」選出、殿堂入り。

こうした『漫画の主人公』を地で行く様な日本競馬史上の伝説的名馬です。

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菊花賞どころか、ダービー後レースに出走することも、叶いませんでした。こうしたケースもあり得るのだということを改めて認識させられます。

2.(1960年)コダマ

こんな歴史的スターホースが生まれた後は、しばらく反動で「地味」な時代が続きました。1950年代は「地味な強豪」が多い印象でして、例えば2冠馬「1952 クリノハナ」「1953 ボストニアン」「1954 ダイナナホウシユウ」などは、お世辞にも派手とは言えない感じです(個人的には好きですが)。

更に混沌とした1950年代の終わり、彗星のごとく現れたのが栗毛の人気馬「コダマ」です。顕彰馬としてはやや地味かも知れませんが、

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ウィキペディアをして“一時は競馬ファン以外の人々にもその名を知られ、その人気ぶりは競馬ブームの端緒となったともいわれる”とある程の人気。

・母親は、自身もダービー2着の「シラオキ」(後にダービー馬となった、スペシャルウィークやウオッカの祖先)。明治から続く小岩井の牝系の出。
・鉄道好きな馬主が、特急『こだま』に因んで「コダマ」と命名。
  ↓
・関西のコダマ vs 関東のマツカゼオー のデビュー6連勝経験馬対決
 となった「皐月賞」を6馬身差で圧勝。無敗2冠に期待が高まる。
  ↓
『トキノミノルの再来』などと謳われ、一般層にも人気が波及。
 観客、売上で新記録を樹立したダービーを無傷の7連勝で制覇

春の華やかな競走成績からは一変、秋緒戦のオープン戦(61kg)で2着と初めての敗戦を喫すると、前哨戦とした阪神大賞典(62kg)は3着、本番たる菊花賞は定量57kgで5着、有馬記念6着と、秋競馬は1勝もできず。

春の華やかさを、秋にも投影する「メディアと一般世論」が、菊花賞で三冠を本来の力量以上にプレッシャーとして与えてしまう恐ろしさを感じます。以下、ウィキペディアからの引用。

しかし快挙を遂げたコダマに対し、武田(文吾調教師)は競走後の手記で次のような言葉を残した。
「今後コダマにかけられるファンの期待は大きい。実質が名声に相応しければ問題はないが、ややもすればマスコミを通じて名声が実質を上まわる。そしてもし、実質が名声にこたえ得なければその罪は関係者に負わされる。私はそれを恐れる。」[15:『日本の名馬・名勝負物語』p.209]

※但し、古馬となってからは、適正距離と思われる中距離路線に特化。6戦して5勝2着1回、宝塚記念制覇を最後に現・5歳で現役を引退しました。

その後、「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。」と評された、 戦後初の3冠馬【シンザン】は、ダービー前が2着で無敗とならず。
また、シンザンの前年の【メイズイ】は、MG対決のライバルに東京記念(現・弥生賞)で2着に敗れており、こちらも無敗ではありませんでした。

3.(1984年)シンボリルドルフ

1964年の【シンザン】以降、『シンザンを超えろ』を合言葉に20年。
多くの馬たちが誕生しますが、シンザンを超えるとされた馬、シンザンでも成し遂げられなかった無敗での春2冠を達成する馬は現れませんでした。

・1973年の【ハイセイコー】は、地方通算10連勝のダービーで3着。
・1974年の【キタノカチドキ】は、7連勝のダービー3着。
・1975年の【カブラヤオー】は、デビュー戦が惜しくも2着。
・1983年の【ミスターシービー】は、3戦目が2着。

そして、シンザンの三冠から20年。ついに『史上初の無敗三冠馬』が誕生。皇帝・シンボリルドルフです。

ここまで半世紀近い「クラシック」の歴史がある中、クラシック三冠を前にどこかしらで「順調に行かない」場面に殆どの馬が遭遇してきました。
しかし皇帝は、デビューから菊花賞まで8戦8勝、一度も敗れることなく、『無敗での三冠馬』を達成してしまうのです。

菊花賞から中1週で挑んだジャパンカップで、自身初の敗戦を喫しますが、これも時代。菊花賞が10月開催で順調に調整できていれば、連勝を伸ばしていたのではないかと妄想してしまいます。

そして、時代は昭和から平成へ。オグリキャップらによる「競馬ブーム」の最中、シンボリルドルフの子が、父と同じ偉業に挑みます。

続きの「平成・令和編」をお楽しみに! 以上、Rxでした。


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