「競馬の歴史」を学ぶ ~牝馬の菊花賞編~

【はじめに】
この記事では、牝馬の「菊花賞」挑戦の歴史を振り返っていきます。

( 過去の類似記事 )

1930~40年代:唯一牝馬が勝てた時代

1938年(昭和13年)に「京都農林省賞典4歳呼馬」として創設された現在の「菊花賞」は、当初こそ他のクラシックと同様、牝馬も活躍していました。

第1回:8着/8頭 フウゲツ
「テツモン」が勝った初回こそ最下位に沈みますが、

第2回:2着/5頭 シママツ
第3回:2着/8頭 ミスミナミ
と、2年連続で2着に善戦しています。更にそこから、

1943年:1着/8頭 クリフジ

史上初の牝馬「菊花賞」制覇を成し遂げたのが、戦時中を代表する名牝「クリフジ」です。長距離とはいえ「大差勝ち」を収めたのは、性別関係なく、力が他を圧倒していたことの証明でしょう。

第7回:2着/5頭 トヨワカ
厳密にはクリフジの翌年にも「長距離特殊競走」として菊花賞が開催され、カイソウが2冠馬を達成……したかに思えたのですが、全馬がコースを間違えて「競走自体が不成立」となったため、カウントされていません。
終戦の翌年にて復活した「菊花賞(農林省賞典4歳馬)」は、5頭中3頭が牝馬という中で、トヨワカが2着と入っています。

1947年:1着/7頭 ブラウニー

牝馬が牡馬を相手に大活躍を見せた「1947年クラシック世代」は、殿堂入りを果たしている【トキツカゼ】が、皐月賞・オークス・ダービー2着という活躍を見せましたが、同じく【ブラウニー】も桜花賞1着、ダービー3着と活躍して秋を迎え、菊花賞をレコード勝ちしています。

実はこの終戦の2年後の1947年の「菊花賞」を最後に、牝馬による菊花賞馬は誕生していません。令和になって「牝馬の菊花賞挑戦」が話題になる度にこの記録が取り上げられますが、その後の挑戦史を見ていきましょう。

第9回:2着/6頭 ハマカゼ
第10回:3着/6頭 シゲフジ
1948年の菊花賞は、その前年のブラウニーのレコードを塗り替える時計で、ニユーフオードが優勝。その時の2着が桜花賞馬のハマカゼでした。

1950年代:牝馬三冠最終戦、2着には入れた時代

平成・令和世代からすると信じられないかも知れませんが、かつて三冠牝馬を目指す馬達は、必ず牡馬混合のクラシック競走を勝たなければなりませんでした。
「ビクトリアカップ」や「エリザベス女王杯」が創設されるのが1970年代。それまで、1950年代中盤からの約15年は「菊花賞」が牡牝を問わず、三冠最終戦でした。

ですから、1950~1960年代は、今よりも遥かに「牝馬」が菊花賞に出走するインセンティブの高かった時代なのです。それでも、結果的には2着が最高で、牝馬の菊花賞馬(=牝馬三冠馬)は誕生しませんでした。

1951年:4着 クモワカ
桜花賞馬ワカクモの母にして、顕彰馬テンポイントの祖母でもあるクモワカは、1951年の菊花賞で4着と健闘しています。そして、

1952年:2着 スウヰイスー

こちらの記事にも書きましたが、1952年はブラウニーが最後に牝馬菊花賞馬となった1947年と同様、牝馬がクラシック戦線を盛り上げました。

第13回「菊花賞」(1952年11月23日)
1着 牡 セントオー
2着 牝 スウヰイスー  1952年・牝馬2冠
3着 牝 クインナルビー 1953年・天皇賞(秋)
4着 牝 レダ      1953年・天皇賞(春)

翌年の両天皇賞を制する馬と、同年の牝馬2冠馬が出走するという今では考えられない様な豪華さの菊花賞、クビ差制したのは牡馬セントオーでした。

1954年:3着 ヤマイチ
そして、ダイナナホウシユウが6馬身差の大勝を果たした第15回では、母・クリフジに次ぐ「母娘制覇」を目指したヤマイチが3着に入っています。

1956年:2着 トサモアー

結果的に、最後に2着となった牝馬が、1956年の【トサモアー】です。7連勝で挑んだ桜花賞を2着、オークスは3着だった同馬が、ダービー25着大敗から秋も順調に巻き返して挑んで2着となっています。

小岩井・フロリースカツプ系の牝系から生まれた同馬。令和になって、実は【レイパパレ】の6代母だということでも一部で注目を集めた馬です。

1957年:3着 ヨドザクラ
     10着 ミスオンワード
しかし、その後の1957年あたりから潮流が変わります。1番人気で菊花賞に挑み、三冠牝馬を目指した【ミスオンワード】が10着と大敗をすると、そこから如実に牝馬による挑戦&好走例が減っていきます。

1960年代:掲示板が精一杯になった時代

1963年:3着 パスポート
戦後初の牡馬3冠馬を目指し、【メイズイ】が圧倒的1番人気となるも6着と敗れた菊花賞、春の牝馬2冠でどちらも2着だった【パスポート】が最後の1冠を目指しますが、3着に入るのが精一杯。

1964年:5着 カネケヤキ
そして、【シンザン】が牡馬の、【カネケヤキ】が牝馬のクラシック2冠を達成し、「菊花賞」で牡・牝2冠馬の直接対決が実現した1964年の菊花賞。

大逃げを打つも3000mの直線で失速。5着と敗れはしたものの、勝ち馬から7馬身半差ですから、内容を見れば善戦だったと言えるでしょう。

1965年:4着 キクノスズラン
1966年:3着 ハードイツト
その後も、「掲示板(5着)」以内に入るのがやっとという成績で1960年代を終えると、先ほど触れたとおり牝馬限定の「3冠目」のレースが創設されて、「菊花賞」への牝馬の挑戦は、稀にしか見られなくなりました。

1977年:10着 ケイツナミ

その後、昭和で唯一の牝馬挑戦例が、1977年の【ケイツナミ】です。実は、繁殖牝馬として、【メジロブライト】の祖母に当たる馬ではあるのですが、競走馬としては18戦2勝、主な勝鞍は300万下条件戦「うぐいす賞」という決して勝算が高くある中での挑戦ではありませんでした。



あの【マルゼンスキー】世代な馬たちによる菊花賞は、日本短波賞でマルゼンスキーに7馬身差を付けられての2着だった【プレストウコウ】が菊花賞レコードで制覇。ケイツナミは10着と敗れました。

却って、実績からしたら10着は好走だったのかも知れませんが、よっぽどの理由も無い限りは「牡馬混合」の菊花賞に(無謀にも)挑戦する馬はいなくなり、平成の時代まで挑戦例は見られませんでした。

1995年:5着 ダンスパートナー(1番人気)

そんな「よっぽどの理由」を持って、平成の時代に果敢にも挑戦してきたのが【ダンスパートナー】です。菊花賞の牝馬としては異例の「1番人気」をもって出迎えられた同馬。

桜花賞は2着と敗れるも、オークスでは日本ダービーよりも早い勝ちタイムで制したことで評価が高まり、フランス遠征からの帰国後、

ダンスパートナーは牝馬限定のエリザベス女王杯ではなく菊花賞に挑戦した(エリザベス女王杯が翌年から古馬に開放されることが決まっていたため「エリザベス女王杯は来年以降でも取れる」ということで、菊花賞に出走した)。菊花賞への牝馬出走は18年ぶり、勝てば48年ぶりという歴史的挑戦で1番人気に支持されるも、結果はマヤノトップガンの5着に敗れた。

と、日本語版ウィキペディアにあるとおり、陣営もオトコ馬に見紛う(?)ばかりの覚悟・根性をもって「菊花賞」に挑んでいます。

しかし、ダンスパートナーでも5着がやっとか……という落胆の思いもあってか、20世紀における「牝馬による挑戦例」としては、これが最後となりました。

2009年:17着 ポルカマズルカ

第70回を数える「菊花賞」に、ダンスパートナー以来となる牝馬挑戦をしたのは【ポルカマズルカ】。ダンシングキイの孫にあたる同馬は、夏の札幌の2600mの条件戦「阿寒湖特別(1000万下)」を制した身とはいえ、まだ条件馬という中での出走でした。

15番人気の17着と長距離での覚醒とはならず、あのスリーロールスとフォゲッタブルがハナ差の接戦を演じた所から、実に3.3秒離されての入線でした。

これが結果的に平成最後の牝馬による菊花賞挑戦で、平成の30年間では僅か2例でした。

2019年:5着 メロディーレーン

令和に入った最初(第80回)の菊花賞に挑んだのが、阪神2600mの1勝クラスでレコード勝ちをした、こちらも条件馬【メロディーレーン】です。

お馴染みオルフェーヴル産駒で、デビュー戦ブービー人気の10着から初勝利までに10戦を要し、まさに運良く菊花賞に出走できたという存在でした。

1勝クラスを勝っただけの身でありながら18頭立ての12番人気というのは、10年ぶりの牝馬挑戦に期待してのオッズかと思われました。

しかし、レースを終わってみれば、勝ち馬ワールドプレミアから僅か2馬身差の5着と、あのダンスパートナーに並ぶ着順で走り抜けたのです。

(以下、日本語版ウィキペディアより)
馬体重300kg台前半という非常に小柄な馬体ながら、長距離競走を得意とするステイヤーとして注目を集めた。
……馬体重が非常に小さいため、馬体重に対する負担重量の割合も大きい。菊花賞出走時の斤量55kgは馬体重(340kg)比で約16%に達し、大型馬として知られたキタサンブラック(菊花賞出走時の馬体重530kg)に換算すると約86kgの斤量を背負っていることになる。

2021年:3着 ディヴァインラヴ

結局のところ、平成以降の3例で見ると、5着2回という成績を残しているため、「日本ダービー」にサトノレイナスが挑戦した時と同様、メディアが大きく取り上げたのが、2021年の菊花賞です。

夏の小倉の「タイランドC(1勝クラス:2600m)」→ 秋の中京の「木曽川特別(2勝クラス:2200m)」と連勝して挑むこととなったディヴァインラヴは、父:エピファネイア、母父:ディープインパクトと、どちらも菊花賞馬を血統表に持っていることもあり、74年ぶりの牝馬による菊花賞制覇なるかと注目が集まります。

しかし、ここ半世紀で挑戦例が4例、たしかに5着率で5割という計算結果となりますが、正直、下に示した「日本ダービー」の記事を書いた時よりも壁は高いのではないかと感じました。

ちょうど、天皇賞(春)が牝馬にとって鬼門となっているのと同じくです。カレンブーケドールが3着に入って、66年ぶりの3着以内として個人的には大いに喜んだのですが、単なる「長距離適性」だけで打ち崩せるほど甘くはないかも知れません。

レースは、前哨戦で自分の走りを出来なかった【タイトルホルダー】が好スタートから単騎逃げを打ち、直線で突き放す強い勝ち方をみせます。1998年の【セイウンスカイ】以来となる菊花賞逃げ切り勝ちで、横山武騎手は父子制覇を果たすこととなります。

最後に1番人気となったレッドジェネシスが13着と大敗する中、離れた2番手争いは、2番人気のステラヴェローチェ、3番人気のオーソクレースと、この記事で話題に挙げた【ディヴァインラヴ】の3頭がタイム差なしの接戦を演じ、ディヴァインラヴがステラヴェローチェをハナ差抑えての3着となりました。

74年ぶりの牝馬による制覇とはなりませんでしたが、あのダンスパートナーでも果たせなかった入着を、ハードイツト以来55年ぶりに決めた激走は快挙と言って差し支えないでしょう。


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