インタビューの効能

SNSは、毎日がお祭りさわぎだ。物理的・心理的に、近い人も遠い人もまぜこぜになって、近況報告をしたり、感情を吐露したり、哲学的なことを語りだしたり、日常をつぶやいたり、宣伝や自己アピールをしたり。手法も、文字、映像、写真、生中継。ありとあらゆる種類のコミュニケーションが混在しているその場所は、本当にお祭りのそれだと思うのだ。

で、だ。お祭りっていうのはさ、1年に1回なんだよね。だいたい秋にあって、今年も作物がみのり収穫ができたこをみんなで喜びあって、お互いの存在を確認しあって、生きている喜びを爆発させる祝いの儀式。準備して準備して、エネルギーを溜めて溜めて、その日1日に爆発させる。だから終わったら「祭りのあと」っていって、心は満たされながらも体はくたっとしなびる時間が待っている。

ある意味いっかい死んで、生まれ変わって、そこからまた、新しい日々が始まる。

それを毎日毎日みんながみんな、祭りだ祭りのあとだ祭りだ祭りのあとだって高速で死と再生を繰り返しているのが、SNSなんじゃないかと思う。

SNSはお祭り会場のように、大人数で・全員が発言していて・話す人と聞く人が混ざっている。そして、誰かが何かを言ったら即反応しないとその発言はどこかに流れて行ってしまうから、いつもどこか焦っている。

そのお祭り会場を頭のどこかにいつも抱えながら過ごしている人が、「あれ、なんか言葉が入ってこないな」ってなるのは当たり前で、疲れてるから休みましょう。でしかない。

いいね!の数が気になる、ならない、以前に、コミュニケーションのお祭り状態が疲れさせてくるのです。

ちゃんと話せてるかな?ちゃんと聴けてるのかな?を確かめる間もなく流れていくたくさんの物語。他人の人生の断片。それらを摂取しすぎて、自分がなにものかわからなくなったら、インタビューをおすすめしたい。

15年間、編集者・ライターをやってきて、数知れない人をインタビューしてきた。質問する人と、答える人にわかれて、少なくとも1時間は、片方が聴き、片方が話す。取材現場ではあたりまえの、このシンプルなコミュニケーションが、世間一般の人には圧倒的に足りていない。というか、そうではないコミュニケーションがSNSによって圧倒的に増えたことで、バランスをとるためにインタビュー的なコミュニケーションの必要性が増しているのではないかと思う。

ただ、話す。ただ、聞く。相槌をうってもらいながら、時に反復したり、聞き返されたり、くわしい説明を求められたり、リアクションをもらいながら話す時間。その時間は、他人の人生の断片を摂取しすぎて、ばらばらになってしまった自己をふたたび統合して軸、"精神の背骨"のありかを確かめるための、日常の儀式になるべきだ。

実は、静かに対話することで自分とつながりなおす時間を、人は宗教の儀式において続けてきた。なので、これは特に新しいことでも珍しいことでもない。仏教の座禅、キリスト教の安息日と懺悔、沖縄土着宗教のウートート。当たり前に、日常に溶け込ませてきたこれらの時間が廃れたり、目減りするのにかわって、瞑想やヨガ、マインドフルネスなどを代表とする数々の手法が「癒し」という記号の下に増えつづけている。

そのひとつに、インタビューを加えてみてはどうだろうか。インタビューは、いわば2人でする瞑想だ。取材をしていてよく思うのだ。内容がメディアに載って不特定多数の人に拡散するという価値以前に、話している聞いている、その共同作業の時間にすでに絶大な価値があるのではないかと。だから、不特定多数の人に拡散するかしないかはおいておいて、話している聞いている共同作業の部分だけを切り出して価値化することが必要なのではないかと思っている。

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