さみしくてやりきれない。

50歳を過ぎてトイレ掃除を本業とする人生になった男を描いた映画が、絶賛されている。しかし男はラストシーンで、泣いているような、笑っているような、怒っているような、悲しんでいるような、どうとも取れる表情を見せ続ける。ひとり、車を運転しながら。頬には涙が伝う。中盤で登場する、上流階級に収まった妹の存在は、男がどこかで坂道を転がり落ちたことを暗に伝えている。私は恐ろしさを感じた。映像が美しければ美しいほど、男の侘しさが際立つ。それを鑑賞するとは、一体どういう映画なのか、と。

近頃の私は、さみしくて、やりきれない。今朝は特に、目覚めた瞬間、たっぷりと水分を含んだ枕のような重い悲しみが胎の底にあった。ずっと抱え続けているさみしさが、昨日受けた腰のマッサージで排出されているのかもしれない。私は本当に、どうしたいのだろう。あの暖かい場所に居たかった。自分から飛び出してしまった、あの暖かい場所に。遠い過去の話だ。あらかじめ失われると決まっていた、親の庇護のもと、若さゆえの気楽さと共に。それはやはり失われた。約束どおりに。

私は今も見つけられずにいる。この人生の一体どこを探せば、宝物が見つかるというのだろう。もう、現状から飛び出す勇気も、新しいものに飛びつく元気も、どこにも残っていないというのに。誰も彼もに、私より大切な人がいる。私はひとりぼっちだ。それを知りながら、生きていくために、誰かと仲良くしなくちゃいけない。いつだって、わたしは勘定に入っていないのに。こんなに辛い思いをするくらいなら、いっそのこと死んでしまえばいいと思う。そう、何回も、何十回も、何百回も思ってきた。

そして今日も思う。いざとなったら死のう。今日1日、なんとか生きてみよう。何かいいことがあるかもしれない。楽しかったり、優しかったり、素敵だったり、美味しかったりすることが。「ありがとう」と思ったり思われたりすることが、あるかもしれない。だから、生きよう。推し活も、ワンコも、女風も、さみしさを潰そうと取り入れたら、余計にさみしくなった。受け取るだけじゃ、さみしくなるんだ。と、仮定して、愛を出してみよう。愛を受け取ってもらおう。


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