容姿の話をしよう

わたしにだって、ある。

この異性は、中身以前に、外見で即NGだ、と思うことが。

今、わたしの頭のなかには2人の人物が浮かんでいる。

背が低くて、顔が散らかりすぎている。

ありなしのボーダーの、なし側のかなたにいらっしゃる。

そんなの、どうしようもない。

痩せたりオシャレになったりすればいい問題でもないことが自明。

本人にもどうすることもできないし、無論わたしにも、どうすることもできない。

むごいことだ。理不尽なことだ。

顔立ちは生まれついてのもので、本人の意思や努力とは関係がない。

ブサイクやブスに生まれたが最後、一生その顔と付き合っていかなければならない。

いっぽうで、イケメンや美人に生まれたら、タバコや不摂生で肌を荒らしたり、むやみやたらに太ったりしなければ、一生得をする。どこで何をしていても、まず目の前にいる人の気分をよくし、人物評価のポイントが大きく加点され、好かれる。好かれるから仕事も恋愛もうまくいく。普通にしてさえいれば、褒められる。努力が関係ない要素で否応なく否定される経験をすることなく人格が形成される。

そういう人がいるのを横目に、ブサイクやブスは、あらかじめ背負わされたマイナスとともに生きていく。

ひがみっぽくなり、自分を否定し、傷つき、疲れ果て、開き直りながら生きていく。

それを誰にも、どうすることもできない。

目の前にある容姿に美醜の評価を下す本能に、誰も抗えない。

わたしは、幼いころから可愛くて愛想のいい妹と比べられながら育った。

大学生のときも、大人になってからも、妹のほうが可愛いとはっきり言われた。

妹の3歳の娘にまで、「あんまりかわいくない。ママの方がかわいい」と言われたときには、もはや諦観しか感じなかった。

それを言う人は、わたしが傷つくということにあまりにも無神経だ。

そういう無神経な人は、この世にたくさんいる。

容姿を否定されることの苦しみを、理解しない人がいる。

その苦しみを理解しないのは、たいてい美しい人だ。

人は、自分が当たり前に持っているものについての他者のコンプレックスに、悲しいほど無頓着だ。そして、当たり前に持っているものを、無意識に他者にも求める。つまり、美しい人は、当たり前に美しい人を求めるのだ。そこには、美しい人といたほうがより自分が美しく見えるといった打算もないことはないのかもしれない。でもそれよりも先立つのは、シンプルに視覚的に違和感のない相手を選んでいるだけの本能なのではないかと思う。

つまり、人は自分の容姿の整い具合に比して整っていない容姿に違和感を感じ、無意識に視界から排除する。相手がどんなに親切にしてくれようと、笑顔を向けてくれようと、見たくないものは見たくない。本能がそう決めているかのように。

ほとんどの恋愛は、この本能の段階で成否が決まる。だからなのだ。恋愛は、出来レースなのだ。だから、がんばることなんてしない。がんばっても最初に勝負はついている。容姿で排除され、実らない。ばかばかしい。また、わたしの容姿に視覚的違和感を感じずに近づいてくる男はだいたいイマイチなので、このベクトルでも恋は実らない。

これこそが、現実。

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