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母さん日記

お気に入りの瓶に水を入れ落としてしまったポトスを挿す。太陽の光が当たり綺麗だ。
瓶を見つめながら大型連休も帰省しなかった息子の事が脳裏に浮かぶ。

もう何回帰って来ないのだろうか...
心に空く極小の穴は早急に塞いでおかないと特大の穴になってしまう。
手当として昔残してくれた優しさを包帯にする。

数年前の巣立つ日の事....

 「何してるの?」
肩から斜め掛けをした鞄から財布をゴソゴソと探している私に怪訝そうに息子が言う。
 「何って、見送る為に新幹線のホームに入る
  チケットを買うのよ。当たり前よね。」
呆れ顔の見本の様な表情をされる

   「ここで待ってて」

全ての荷物を右側に持ち替えて颯爽とチケット販売機に歩き出す背中を見つめながら
胸がドキドキとモヤモヤで大渋滞が起きた。

今時期の別れでもあるまいし...されども...
暫くは会えまい。
自分のチケットだけを買い、入場券を持って戻らなければ何としよう?

ここは怒ってはいけない。どんな顔をするか?
どんな声の高さにするか?
いや、お茶を買いに行くのが正解か?
いや、この人混みで迷子となる事は不正解だ。 
受験結果の合否で落ちつかない時間を思いだした。
入場券の手渡しを待つ母はもはや親子の立場が逆転している。

 「はい。」

手渡された入場券は何万もする人気アーティストのチケットと同じ価値にさえ思える喜びだ。

       「嬉しそうに笑うな」
一緒に見送りに来ていた弟達が横で大笑いする。

入場券を渡すな否や
荷物を両手に持ち替えて足早に歩く背中、
必死で歩幅のズレを埋めて歩く。
時々、振り向いても無言。目線は足元を気にしてくれている様だ。

新幹線乗り場のホームに上がるとキラキラ光る
新幹線が待っていた。
新幹線にお願いしますと頭を下げたい気持ちが込み上げてしまう。

「もう、乗るのかい?」
母の問いに小さく頷く横顔が答えた。

「席に着いたらパソコンで作業をしたいからな」
そう言いながら弟達の頭を撫でる姿。

母は知らず知らず下を向いていた。
息子の靴の先が方向を変える....

  「こんな時に何か一言無いの?」
文句なのか、嘆きなのか、整えたつもりの言葉が
口をつく。

  「じゃあな」
振り払う言葉と同時に荷物を左右に持ち大きくなった背中は車中に消えた。

磨きあげられた新幹線の窓に幻想的な光が当たり沢山の人とホームの全てを写している。
その窓の内側に巣立つ姿を探す。
散々、背伸びをして見つけた姿は言葉通りに数時間の旅の準備を整えていた。
名残惜しそうに窓を見つめる訳でも無く、ひたすらパソコンを打ち始める。

(なんて子なんだろう。
  見送り人を見る事も無く....
    育てた方を間違ってしまったのかも知れない)

車中と駅のホームに分かれて立つ空間に数分だけ心を預けてみた。
こんな風に仕事をするのだろうか....
親は子供が仕事をする姿を見れるとは限らない。
少し前の小さな腹立たしさが消えて行った。

(お待たせ致しました。◯◯番線ホーム.....)
電車が出るアナウンスが鳴る。

「兄ちゃ〜ん。頑張れよ〜。またな〜。」
全身の力で声を張り上げ笑顔で手を振る弟達に
急いで窓まで近寄り笑顔で手を振る姿。
堪えきれずに溢れた涙。
車体に息子を頼みますとお願いしたのに、両手で車体を止めたくなる気持ちになった。

去り行く新幹線の後部を見つめながら、老眼コンタクトの検眼で視力を2.0に上げておけば良かったと後悔した。
視界が早くぼやけるのは視力の力か涙のせいか。

 「母さん。行くよ。」
笑顔いっぱいで兄を見送った弟達に肩を叩かれて歩き出す。

「兄ちゃん、やるよな〜。流石、兄ちゃん」

その言葉に一瞬、時がとまる。

見送る者は見送られる者よりも辛いはず。
あっさりと行く方が良い。
形無き母を想う心を確かに受信した。

確かに。そんな人だ。あの...子は。

極小の穴もすっかり優しい包帯が包み
元気な一日の始まりに空を見上げた。

  息子よ。またね。

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