情報を発信することで自分の心を確立する。

情報を発信するということについて、最近よく考える。

明確にいつからというのははない。
ただなんとなく身の回りの全てが情報に囲まれているというのが気持ち悪くなったのだ。
遡ればいつの時代だってそうだったかもしれない。
昔から新聞にテレビ、ラジオなど情報だらけだろう。
なんなら突き詰めてしまえば、この世にある人工物は全て誰かが誰かに向けて作った情報である。

ただ現代では、インターネットをしているだけであまりにも有象無象の情報が入ってくる。
これがものすごく気持ち悪くて怖いのである。

テレビや新聞の情報に対してその怖さを感じないのは、
プロが作った情報だからだろう。
(テレビや新聞がプロかどうかについての議論は割愛する。)

僕が学生の時は、情報の取捨選択を簡単にすることができたと思う。
例えば政治の話であれば、「右」や「左」など視点や切り口によって物事の見方は大きく変わる。
両方の情報を吟味し、自分の中に落とし込む。
そんな作業をすればいいと、学校で教わった気がする。
テレビの裏側には多数のテレビ局があり、新聞の裏側には新聞社が存在するのを僕たちは知っている。
それによって情報の発信の仕方に癖があることも僕たちは知っている。
見極めができていたはずだった。

それがインターネットの世界になるとどうだろう。
Twitterという媒体、5ちゃんねるという媒体、yahooコメントという媒体とは無数の人の意見が集まった集合情報だということを忘れてはないだろうか。

食事に行くとき食べログを見て、あまりおいしくなかったという感想を見て、自分では食べてもないのにおいしくないんだなと思いこんだり。
映画を見る前に映画の評判を調べて、つまらないんだなと思いこんだり。
その感想を書いているのは有象無象の1人でしかないのに、なぜかそれをありがたい情報として受け取ってしまう。

映画を見た後にレビューをすぐ見る癖はついていないか?
ニュース記事を見た後にすぐコメント欄を見ていないか?
Youtubeの動画を見た後や見ながら、コメント欄を見ていないか?

この時に自分の意見が知らぬ間にその有象無象の情報に塗り替えられていないか?

これが怖いのである。

映画を見て楽しかったと思ってTwitterで見たら、駄作だなんだと書かれていて、確かに・・・と思ったことはないか?
そして他人にあまりおもしろくなかったよと発信していないか?

現代は自分の意見や感想が有象無象の発信者によって音もなく上塗りされている人がものすごくたくさんいると思う。

だから僕は発信しようと思った。
有象無象に何もせず塗り替えられるなら、僕も有象無象になってやろう。
これがその第一歩である。

このまま情報の受け手で居続けたら、有象無象に僕の大切な感情が飲み込まれてしまう。
感じる、思うということは生きていくうえで絶対に大事にしなくてはいけない部分だと思う。
だから何かの拍子で自分の心が動いたときは、
有象無象の情報にかき消される前に、情報として発信しようと思う。
今は誰にも見られなくてもいい。駄文でも乱文でもいい。
自分が感じたこと、考えたことを言語化という形でアウトプットをする。
それが大事なのである。
そうすることで僕は僕であり続けるのだと思う。

当然、有象無象の中にも光るものがあるわけで、
そういう人たちは発信者として、有象無象から頭一つ抜けるんだと思う。

だから僕も有象無象からスタートして、
いつか発信者として共感や批判など僕からの情報で心を動かすことができればいいなと思う。

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