全体と細部、楽しさと問題認識 (日記)

例えば論文やWebアプリケーションを書いている時。

まずそれぞれ最終的な目標を設定することになる。上の例であれば、論文は最低限のページ数と必要な章を書く、Webアプリケーションは必要なページと必要な機能を定義し、実際に動かすことができる状態に持っていく。このように目標を設定できた場合、同時に締切となる時間が設定されることがほとんどだ。そうなると、第一にその締切までに目標を達成することが目的となり、過程は評価される点ではなくなる。

多くの状況で、最善なのは全体を形にしてから、残りの時間に応じて細部を整えていくというやり方になると考えている。逆に、全体を忘れて、細部に集中してしまうと失敗することが多い。論文であれば、実験部分について大量の時間を使っても、比較検証や得られたデータの考察などに全く時間を使えなかった場合は無意味なものになってしまう。Webアプリケーションについても、あるページはデザインがすばらしく機能のバグがひとつも無くとも、ユーザーが最も利用するページの動作がおかしいと、ユーザーがどんどん離れてしまう。そうなるとWebアプリケーションという一つの単位で見たときには価値はほとんどゼロになってしまう。

全体から、というのは絵を書いている人や、本の執筆などを行った経験がある人はピンとくることなのだろうと思う。

ここまで分かっていながら、私は全体を見るのが苦手で、気が付くと細部にはま込んでしまい抜け出せなくなっていることがよくある。はまり込んでいる最中は、まさに「はまって」しまっているので、自分がそうなっていることに気が付くことができず時間を浪費してしまう。悪いことに、その「はまって」いる状態の自分は、全体が進まないという苦痛よりも、強い楽しさを感じてしまっている。この楽しさを感じるというのは、期限があるようなものに取り組んでいる場合は大きな問題になることに最近気が付いた。

楽しさの弊害

楽しさを感じるあまり、時間を忘れて何かに取り組むと、それを終わらせた時に大きな達成感を得てしまう。そうなると、自分は時間を必要以上に使ってしまったという問題に意識が向かず、何かを終わらせることができた、という良い点のみ認識するということが起こる。趣味などであれば何の問題も無いのだが、時間的な期限が設定されている場合は、時間を使いすぎたというのは失敗であると認識し、問題解決手段について考える必要がある。

問題を問題であると認識できたことはとても大きな一歩になっている。今自分の起かれている状況が、何らかの手段を用いれば改善できる可能性があるものであると考えることができるからだ。

今回の場合は、タイマーなどを用いて、ある作業にどのくらい時間を使っているかを見えるようにするなど、自分の感覚に依存しないような評価方法を使って記録していくべきだ。それは理解しているつもりなのだが、これまでの経験上、そのように何かを定期的に記録したりすることが苦手で、継続することができない。もっと何か別な手段を考えるか、自分がそれを継続できない理由を探って、自分に合ったものを見つけるか作るかする必要があるのかもしれない。

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