世界を創る人

世界を創る人というのは、例えば漫画のように、あるキャラクター達とその関係性を絵や文字などで表現する人を指す。単に創作する人とは言わずに仰々しく「世界を創る」と表現するのは、創作されたものの中でも、魅力があったり感動するのとは別に、世界を感じるものが稀にある。例えば、キャラクター達が本当に生きているかのように作者が扱っており、また、それに対して読者が違和感を抱けない(そのキャラクター達が実在しているのだと錯覚、または心からそう信じれる、信じそうになるような現象を指す)ような物語がある。

世界を感じる、というのは変な言葉であると自覚しているので、もう少し詳しく分解してみたい。

まず、「感じる」である以上主体は漫画などの物語を読む側であり、その物語から世界を感じるかどうかは人による。私の場合は、例えばワンピースやハンターハンターを読んでその面白さに感動しても、それはあくまで楽しい創作の物語を読んだ時の感動であって、ルフィやゴンが本当に存在するかのような感覚になることはない(つまり上記の「世界を感じる」ことはない)。もちろん主体が読者である以上、この例として挙げた二つに世界を感じる人がいる可能性は十分にある。というか当たり前にそういう人がいることは分かる。他の可能性としては、どんな物語を読んでも、自分が感じているような感覚になることがない人や、逆にどのような物語からでも感じる人もいるかもしれない。

次に、世界を感じたときの感動というものには、純粋な感動に比べて、恐怖にも似た感情が多く含まれているように思う。
 なぜこのような物語やキャラクターを創れるのか。もしかしたら創ったのではなく実在する何かなのだろうか。それを作者だけが見えているのではないか。本当に同じ人なんだろうか。これを作りながら普通の生活ができるのだろうか。
 このように、尊敬というような感情のほかに、恐怖のような思いが乗った言葉が出てくる。その恐怖心は嫉妬などにつながることもある。こんな風に人に感じさせるようなものを創るのは、自分には一生かかっても不可能かもしれない。この人はきっと自分には分からないような、なにかを創るときの感覚を知っているに違いない。ズルいぞと。

これに対しての冷静な自分からの答えは、それが分かるまでなにかを創ってみろである。今こう考えてみると、これが分かった時というのが、自分が気づいたら持っていた、何か素晴らしいものを創れる人になりたいという抽象的すぎる夢の目指すところなのかもしれない。ただ、自分はそれを夢見ながらも、実際に何かを創るための行動がなかなかできないでいる。モノを創れるようになりたいという夢をもちながらも、そのために何をすればいいのか分からない、というような理由でモノを創らない。そんな、前世で一体どんな悪いことをいたのかというような人が、自分以外にもたくさんいるのではないかと思う。多分、それは考えていれば見つかる類のものではなく、創りながら探すしか無いんじゃないかと思った。当たり前すぎることでありながらも、見なかったことにしたいと思う現実だ。

私は何か物語を創りたいと決まっているわけではなく、自分が創ったもので、自分がこの「世界を感じる」と表現した感情を持って欲しいというのが夢になる。自分が創ったものであれば、文章でも映像でも何かアプリケーションでも良い。つまり、相手にこう感じて欲しいというのが先にある。普通モノを創る人、特に自分が「世界を感じる」モノを創っている人は、誰かのためにではなく、その創ること自体が目的であるように見えることが多い。これから出てくる疑問は、果たして目的ではなく手段として創られたモノに対して、人は「世界を感じる」ことがあるのだろうか。ということと、手段であったモノを創るという行為をしていく内に、目的となるような何かを見つけることがあるのだろうか。ということだ。

この二つの疑問を解消するには結局のところ何かモノを創り続ける他なく、悩むという逃げ道が絶たれたことが確認できてしまった。

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