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矢崎弾2文学史への疑問

かれが評論家としてどういう人物だったかざっと書いてみる。
矢崎弾は慶應大学英文学科出身、1932年(昭和7年)『三田文学』で文芸評論家としてデビューした。「この昭和七、八年というのはプロレタリア文学にとって大転向の時代である」(渡辺憲1976)。1932年から34年雑誌に書いた文芸評論を『新文学の環境』(1934)として出版、この本の巻頭は「日本的思考の基本的弱点 ー観念未熟の文学についてー」で、以下41の文章が収められている。目次を見れば、思考、観念、自我、意欲、我執などの心理を表す語彙が目を引く。松田さんの聞き取りによればそれは事実ではないらしいが、慶応の医学部にいたという記述が地元の文書にあり、それを連想しなくもない(松田2014)。渡辺先生の作成した年譜を見るとこの時期『三田文学』のほかに『経済往来』『新潮』『改造』『行動』に書いている。上海渡航や検挙の前、前著同様の問題意識をもった30の文章を収める『過渡期文藝の断層』(1937)を刊行した。「かくして現代への、現実への愛着の過度は僕を噛み苛む復讐となった。」(「序」)とあるのはその後を予見しているかのようだ。
それら評論の中でよく知られるのが小林秀雄批判だ。小林論は矢崎を論じる時に重要なので、私の見解をふくめて少し書く。『新文学の環境』には、「「批評」は狗に喰はすべきか?」(1933)、「小林秀雄を嚙み砕く」(1934)、「小林秀雄への手紙」(1934)、が収められている。『過渡期文藝の断層』には「現象論における小林秀雄の弱点」(1936)が収められている。私が矢崎の小林論で最も重要と考える「體温の実證主義」(1939)(『文藝の日本的形成』(1941)所収)を後に書いている。小林は一度だけ「君は裁断を嫌う精神とはどういうものか知っているのか。良心をもって知っていると言うか。」などと、矢崎が自分の精神を理解できていないとする反論を書いている(小林秀雄「文学界の混乱」1934)。その自らを描く筆致はいつものようでもあり、かれらしからず興奮しているようにも感じる。小林秀雄は「ランボオⅡ」(1930)をすでに書きドストエフスキー論を書き始めているが、後に定着した、ビッグネームにあやかる作文を得意とする保守評論家、という現在のイメージそのままではなく、まだ文芸批評家としての顔を持っていた(注1)。
矢崎は直感的に小林の評論をガラパゴス的として断罪したのだと思う。おそらく多くの文学愛好家はこうした評価を受け入れないであろうが、同時代おなじ題材を扱うおなじ批評家として、矢崎には後世のわれわれより小林がよく見えていた可能性はあるはずだ。小林は矢崎の仕事を批判せず、小林自身のイメージの修正を求めている。かれにとってはそれが琴線に触れることなのだ。渡辺先生は、矢崎はその論にアクチュアリティ(現実性、今日性)があるからかえって文学史に埋もれ、そうでない小林が生き残ったと鋭く指摘する。素人の私からすると文学史は本来歴史であって「みんなで選んだ名作集」みたいなものではないのだから、これまでの文学史がそうした評価で綴られて来たことに疑問を感じる。おそらく紅野敏郎の矢崎軽視も、同じ根を持つのであろう。戦争中活動していた文学者の研究が深化しないのも同じで、研究者が市場価値に迎合して文章の評価を集約することに特化し、史実を門前払いさせてきたからではないのか。しかしいずれにせよ戦争も他人事で生きた小林と、戦中ですら時代に対峙して日本的なものを剔抉しようとしていた矢崎は水と油なのだ。(注2)
小林秀雄に対する私の見解については、本論の3で改めて述べるとして、評論家矢崎弾についての記述を続けると、1935年創刊された文芸同人誌『星座』で矢崎は中心的な存在になった。『星座』は銀座の紀伊国屋で売り切れになるなど売り上げを伸ばしていたらしい(渡辺 同前)。石川達三「蒼氓」が初号に掲載され、第一回芥川賞を受賞している(1935)。矢崎は関係者に推薦して回った(注3)。立ち上がったばかりの芥川賞の権威は戦後とは比較にならないが、それでも現在でも知名度のある選者による、候補の太宰治や高見順を押しのけた新人の受賞は、文学の世界では小さくない話題になったことだろう。石川自身、この受賞が、作家として生きていく契機になったとのちに述べている。その程度のインパクトはあったのだ。
矢崎は『星座』を足がかりに、二十数誌により同人誌クラブを創立。『日本学芸新聞』によれば1936年9月時の会員は、『小説』『文学生活』『人間』『白金文学』『文陣』『文化建設』『近代派』『椅子』『文装』『葡萄』『否文学』『龍』『青山文学』『作家精神』『新思潮』『阿房』『黙示』『新文学』『麺麭』(パン)『翰林』『日本浪漫派』『塾文科』『織匠』『作家群』『日暦』の25誌(松田 同前)。有力同人誌をもれなく包含することを設立時の目標としていた。これら同人雑誌個々がどれほど弱小だったとしてもその数は少なくない。今ではこれだけ同人誌のあったこと自体が想像しがたい。さらに、同人誌クラブ賞をつくり、1937年、第一回の受賞者を発表している(渡辺 同前)。
矢崎は同年上海に渡航して中国文学者、茅盾、胡風、簫軍、王統照、張天翼、孫施宣らと交流する。矢崎は以前から魯迅に対して興味があったらしい。この時上海で魯迅の墓に並び立ち写真を撮っている(渡辺 同前)。写真のもうひとりの人物がだれか調べようとしたことがあったがいまだにわからない。中国文学者竹内好(1910~77)が1942年に当時勤めていた回教圏研究所の出張の際この墓を訪れているが、その時陶製の肖像が壊されていた(黒川他2018)(注4)。戦後竹内などの中国文学者が魯迅とともに取り上げた作家たちと、矢崎は同時代に生きて対面していたことになる。竹内好が矢崎について言及していてもおかしくないが、また文学史において日中を横断し弾圧された矢崎について言及するべきだったと思うが、私はその事実を知らない。
そして同1937年8月18日、警視庁特高一課が矢崎を、①上海における鹿地亘らとの左翼運動の密議のあくまで可能性 ②なぜか日中文化の交流 ③現実的には思えない『星座』を使った共産主義の扇動と宣伝 ④反戦的不穏言辞、以上を理由にして、検挙という名の拘留をし、1年3か月(松田 同前)解放しなかった。おもしろいのが④の反戦的不穏言辞で、特高によればかれは以下のようにぶったらしい。
「もう、世界は終わりだ。
 今回の日支問題を契機に世界は必ず二派に分かれて第二の世界大戦まで
 進むと思ふ。それからこの際、日本主義者即ちファッショを徹底的に撲滅して仕舞はないと、結局日本主義者の為に日本は滅びて仕舞ふ」(松田 2014)
いや、笑ってしまうほどその通りになったではないか。
この長期拘留によって『星座』も同人誌クラブも日中交流もご破算となってしまい、矢崎は決定的に健康を害した。                                                                                    
しかし釈放後も、特高が書かせたと思しき一、二の文章ののち、矢崎は以前と同様に書きつづける。ただし、時代にあわせた抑制とレトリックの駆使は相当なものであったと私は思う。
『文藝の日本的形成』(1941)あとがきにはこうある。「ここに集められた諸篇を出版のために読み返した時、殆んど全篇に亙って日本的なものへの反省が餘りに屡々現はれるので、私は少なからず驚いた。」
この時期『転形期文藝の羽搏き』(1941)、おそらく戦時生産性にかかわる時流に便乗した『技術文化史』(1941)、戦後ほとんど書きかえることなく再刊した『三代の女性』(1942)、文学関係者の評価が高い『近代自我の日本的形成』(1943)を出版している。
これらのほかに時評を雑誌『経済情報 政経編』に書くなど、検挙後も執筆意欲は衰えなかったようだ。しかし述べたとおりこの時期のかれの文章は権力の目を意識して練られたもののはずで、われわれが読むとき十分に状況を踏まえなければならない。渡辺先生は矢崎の共産主義者としての検挙はおそらく根も葉もないでっち上げであり、にもかかわらず「矢崎の生家で会った人々は彼のことをアカだと言った」として矢崎の生きた時代は恐ろしい時代だったと結ぶ。また、ご夫婦 (注5)でインタビューに応じてくださった同人雑誌クラブ賞の受賞者の一人である『星座』の山本和夫(1907~96)さんも、矢崎は共産主義者ではないことを強調し、大正デモクラシーの申し子として評していた。しかし検挙後の矢崎が、共産主義者そのものではないにしても共産主義に急速に接近した可能性はあると私は考えている。唯物論的な表現が見られたり、’思想’ の重要性を説き、魯迅を変わらず評価し、三木清や中野重治への言及あるいは、石川達三と疎遠になっても懐かしく思うことはない、戦後すぐ黙することなく新日本文学会に参加するなどがその理由だ。長く拘留されていたことも、かれの性分を考えれば後押しした可能性があると私は思う。もちろんたとえそうであったとしても、そのように書くことなどできる時代ではなかったし身上でもなかった。
1939年から1942年まで『日本学芸新聞』編集者として過ごし、戦後には前述のとおり新日本文学会に参加。しかし終戦 (注6)の一年後1946年8月に、戦中を回顧することなくこの世を去った。
わかりやすく人口に膾炙した代表作なりトピックスなりがないために矢崎弾を軽視するのは、学問的業績を認められないとして南方熊楠を軽視するようなものである(注7)。時代や文化の制約を十分に考えるのが歴史家の責務だ。特に矢崎の場合実働期間が短くしかもそれは評価するのが難しくなる戦争統制下の時期が長い。だからといって矢崎弾の名を簡単に忘失してしまってよいのだろうか。私はそうは思わない。その人生は、激動期の歴史そのものではないか。

(注1)「もちろん、この時期の小林は「文芸時評家」であることを止めたわけではない」(吉田熈生)この時期とは、1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)頃(小林 1986)
(注2)小林はファシズムの進行も戦争も、いつも追従的に ’眺めて’ いる。例えば「僕は転向という言葉を解しない。転向者の心事を漠然と推察するだけだ。」(「雑記」1938 小林 2003 以下同じ)「何処に行き、どういう報告を書かねばならぬという義務もないのは、気楽な気持ちだったが、それだけにどうしたものか見当がつき兼ねていたわけだが、事変当初からいるSの様な従軍記者に会い、戦争が既に日常生活の一部となって了っている様な話を聞くと、ああもうこれはいけないと思った。新米が妙な好奇心など抱いて出る幕ではない事がはっきり頭に来た。僕は第一線には行くまいと決めた。」(「杭州」1938)。 体制的な権力関係、権力勾配にも従順に見える。「「気を附け、注目」と号令をかけられた時にはドキンとしたが、思い切って号令を掛ける様な挨拶をする」(「杭州」1938 芥川賞陣中授与式)「日本がこういう危機を切り抜けようとするに際し、政府の国民に示す政策には、何かぎこちないものがある事を遺憾に思う。もっと闊達な政策を僕等は皆希望している。」(「支那より還りて」1938 小林 2003)。かれは「銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国の為に死ぬであろう。」といい、「日本の国に生を享けている限り、戦争が始った以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事はできない、たとえ人類の名に於いても。」といいながら、文学は平和時のもので戦時には戦争は勝たねばならぬという理論しかないと決めつける(「戦争について」1937 )。かれは主体的に戦争のために協力するわけでもなく、受け身のままできるだけ見栄えよく生きたように見える、その一方で、マルクス主義者を ’歴史的必然病患者’ と冷笑する。
(注3)中野好夫は第一回芥川賞選考について興味深い話を書いている。選者の中で「蒼氓」を推しているのは山本有三くらいで、佐藤春夫、川端康成、瀧井孝作ら選者には高見順、太宰治の方が評価が上だったように見える、それを覆したのは文芸春秋社主催の菊池寛の評価だったらしい、というのだ(「人と文学」石川1964)。矢崎の影響力がどれほどであったかはわからないが、かれが推薦してまわったことを批判する人もいたようだから、まったくなかったとは考えにくい。菊池寛の評価だけで決まるはずもないと考えるとしたら、矢崎の運動は中野好夫が言及するに値することだったのではないか。
(注4) 竹内好は1932年に中国旅行(北平)、1937年10月から1939年10月まで留学をしている(黒川みどり他2018、YU Yiyan(余禕延)「竹内好の向きあった中国と文学 ー戦中戦後の日記から読むー」2019)。
(注5) 夫人は山本藤枝(本名フジヱ 1910-2003)児童文学作家・翻訳家
(注6) 特にこだわらないが、日本は硫黄島陥落、あるいはそれ以前に実質敗戦していると思うので8.15を終戦と呼んでいる。
(注7)例えば『現代日本文学史』(大久保他 1988)は一部のみ見た範囲で、素人の私にはよくまとめられている良書と思うが、もちろん矢崎弾の名はなく、同人誌クラブについての記載はない。

小林秀雄『新潮日本文学アルバム 31 小林秀雄』1986 新潮社
小林秀雄『小林秀雄全作品10中原中也』2003 新潮社
渡辺憲日本近代文学会新潟支部『新潟県郷土作家叢書2社会派の文学』1976野島出版
松田實『矢崎弾とその時代』2014
石川達三『石川達三集 現代文学大系48』1964 筑摩書房
黒川みどり他『竹内好とその時代ー歴史学からの対話』2018 有志舎、ただし未見で、だいだらぼっちのブログ「海神日和」を参照した。
大久保典夫他『現代日本文学史』1988 笠間書院

※写真は『経済情報 政経篇』1941年12月号。矢崎は「国防的文化のために―各文化分野の固有の本質尊重について―」との一文で国防のためにも文化固有の本質を尊重し育成しなければならないと説く。


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