矢崎弾6ミクロな文学史
私は「矢崎弾2文学史への疑問」で、文学史が歴史から逸脱しているとして次のように書いた。
「素人の私からすると文学史は本来歴史であって「みんなで選んだ名作集」みたいなものではないのだから、これまでの文学史がそうした評価で綴られて来たことに疑問を感じる」
「研究者が市場価値に迎合して文章の評価を集約することに特化し、史実を門前払いさせてきた」。
ただし文学作品の価値は、歴史にとらわれるわけではもちろんない。
例えば、加藤周一『日本文学史序説』(1980)は様々な文学者などを的確に要約しながらより歴史を描くことに主眼をおいた著作といえるが、そこには事前にかれ独自の見立てが存在し、作品や表現者たちはそのストーリーにそって択ばれ象嵌されているようにも見える。加藤の文学史には、私の愛する(思いつくだけでも)式子内親王も中勘助も大手拓次も夢野久作も原口統三もその名がない(注1)。 矢崎弾はもちろん、石川達三もない(文庫版1999)。これは加藤周一の問題というより、そのようなマクロな視点でできることは限られているということだと私は思う。先述の " みんなで選んだ名作集 " はその容易な解決策なのだ。
しかしミクロな視点に立てば、もっと可能性の幅があるだろうと私は考える(注2)。矢崎弾に関して言えば、例えば郷土との関係であり、あるいはその前史である。佐渡出身の北一輝(1883-1937)、青野季吉(1890-1961)、新潟市で生まれた池田寿夫(1906-1944)(注3)といった、近い年代の同郷の人物たちとの比較はひとつのテーマになりえる。
青野季吉は佐渡の佐和田町宇沢根(旧・沢根町)で生まれ、初めプロレタリア文学の評論家として知られた。青野は1925年上海へ、荒畑寒村ら四、五人で内部対立の解消のためコミンテルンの極東代表に会いに行っている。それから10年以上経った1938年の人民戦線事件では、すでに日本共産党とは関係していなかったにもかかわらず、検挙・拘留された。過去の青野の上海行が、鹿地亘(注4)の存在とともに、矢崎の検挙に影響しているかもしれない。
北一輝の今もそのままの生家は、両津港のすぐ近くにあり矢崎の生まれた家はそこから自転車で容易に行ける距離にある。二・二六事件の理論的指導者として処刑された北一輝の宗教といえばもっぱら法華経を思い浮かべるが、前述したとおり(「矢崎弾5灯台」)初恋の人に聖書を贈ったらしい(川島祐一 2020)。佐渡にはすでに教会があった(三村修)。キリスト教については、陽明学が受け入れを容易にしていたらしい時期があり(小島毅 2006/2024)、儒教のすたれた現在のわれわれが想定するより、近くの存在であったかもしれない。矢崎弾がどの程度北一輝を知りえたかはわからないが、キリスト教の影響も含めて、二人を関連づけてみるのは無意味ではないように思う。
池田寿夫の本名は横山敏男。東大農学部を卒業後、組合活動から1935年日本共産党に入党し、刑務所に入れられ転向手記を書いている(注5)。1939年満洲に渡り新京で農業指導をし本を書いた。その一冊の跋文の中で矢崎弾は、横山を兄、自身は弟、としている。矢崎はそこで、横山との出会いを横山が満洲へ渡ってからだと書いているが、それ以前の池田寿夫を知らなかったとは書いていない(横山敏男 1942)。ウィキペディアによれば、小樽文学館に池田寿夫の蔵書が寄贈されたという。そこに二人の関係に何らかの示唆を与える資料があるかもしれない。
ところで加藤周一『日本文学史序説』で的確に人物を要約しているわかりやすい例としてここでも小林秀雄があげられる。
「創造的な「天才」を語ることで、小林秀雄は常に自分自身を語っていた。」(加藤周一1980)
小林の仕事を短くひとつのセンテンスにまとめるならこれがおおよその正解だと私も思う(注6)。しかし加藤は同書のその後で残念ながら、「詩人小林秀雄」などとかれのことを称している(注7)。それは表現者であるより評論家である加藤周一の限界なのだろうか(注8)。「詩人」ということばはずいぶん便利に使用されるが、たいてい何らかの認識の方法などについて使われ、実際に詩を書くことについては前提されていないのが特徴である。しかしそれでは清水ミチコが「はたして歌は音程か? リズム感なのか? いいえ、大切なことは魂ではないか」と前ふりして音程もリズムもはずし朗々と歌う「マイ・ウェイ」のようなものと変わらない(注9)。ディテールの正確さを保証しないそれらしい寓話も魂を込めて歌えば、加藤周一のような知性がある人物でも思考停止して「詩人小林秀雄の鋭い感受性が遺憾なくあらわれている」などと言いたくなるのだろう。
こうした音痴の熱唱スタイルへ、どのように収斂していったのだろうか。私は小林の青年期はじめ生涯について詳しくはないが、文学的エリートとしての環境(注10)と、富永太郎、中原中也、大岡昇平といった創作の才能ある人々との関係性の中で形成されたと推測する。かれは自らの才能(の限界)を認識しそれを卑下しては見せるが、習作であるとか若気のいたりとか弁明可能な初期小説(注11)以外には自らの手になる作品がなく、かれの言う "意匠" たりえるような思想体系を作らなかったため、夜郎自大に自分を ”天才” たちの近くに置くことができた。それによって学者でもない創作者でもない、厳密には評論家ですらないとも言える "詩人" の立ち位置を小林は優秀な学友たちの間で確立する。アルチュール・ランボーは創作を捨てた、という伝説にかれが飛びついたのも自然なことだった。持たざる者は万能なのだ。
佐渡という孤島から私学にすすんだ矢崎弾には、当然ながら小林秀雄のような環境はなかった。若い頃に影響を受けた人物の話も聞かない。そもそもかれは、自らを語ることが少ない。小林とは真逆にも見えるかれの特異な文筆家としての性格を培ったのは、読書の知識だけだったと今は仮定しよう。卒論に選んだのは岩野泡鳴であるから、そこにひとつの手がかりはある。泡鳴は十一才で英語教師に預けられ、成人して自らも先々で英語教師をしている(小説『惑溺」にも英語を教える場面がある)。詩人であり性愛については極端に放漫自由であった。十代の頃洗礼を受け伝道師になるつもりだったというのも興味深い(日本近代文学館1984)。英語文化とキリスト教は、矢崎を考えるとき留意すべき要素である(注12)。
そしてもう一人私が考えるのは、厨川白村(1880-1923年)だ。夏目漱石門下の英文学者で、自由恋愛を主唱したこと、フロイトの説を援用していることは注目に値する。さらに代表作『苦悶の象徴』(1924年)を魯迅が評価し翻訳していることは、矢崎が影響を受けた可能性を示唆するようにも思える。この厨川白村もまた、文学史からは葬りさられている。私には矢崎が厨川に言及していた記憶はないし、その他二人が関係するなんらの根拠もない。しかし、たとえ矢崎が直接の影響を一切受けていなかったとしても、厨川白村は、矢崎がかかわる文学史に必要なピースではないかと思う。
(注1)式子内親王(1149-1201年)は恋愛を主要テーマにした歌人、中勘助(1885-1965年)は「銀の匙」で知られる小説家、大手拓次(1887-1934年)はフランス象徴派に影響を受けた詩人、夢野久作(1889-1936年)は「ドグラ・マグラ」で有名な怪奇小説家、原口統三(1927-1946年)は『二十歳のエチュード』で知られる19才で自死した詩人。原口は自ら詩稿を捨て、掲載されるはずだったふたつの詩も焼尽したという(ウィキペディア)。しかし、親友であった橋本一明が記憶し書き残したわずかな詩句だけ見ても、原口の詩人としての才能は稀有のものであったと私は思う。
(注2)例えば前田愛の仕事が想起される。あるいは、思想の科学研究会『共同研究 転向』(1959)のような方法で、単なる評伝ではないミクロな文学史を書くことが可能だと思う。
(注3)「越後出身の文学者のうちで、おそらく、佐渡出身の矢崎弾と並んで、その生前の活躍ぶりの割に、もっとも恵まれぬ一人であったであろう。」(伊狩章1978)
(注4)鹿地亘は獄中転向した後上海へ渡航した際の思い出を書いている。渡航後魯迅と胡風が内山完造の家へ鹿地に会いに来ている。魯迅はじめ当時日本留学した文学者たちがいて、日本の文学に関心をもっていた。「私は国外に出て、思いもよらず親しみにみちみちたみうちに囲まれている自分を見出した。」(鹿地亘1959)
(注5)平野謙「たたかいやぶれたものの嘆き」(佐多稲子他1968)参照
(注6)問題は、「自分自身」とは何か、だ。
(注7)小林は戦争の最中に戦争とは関係のない日本の古典文学についての文章を書いていた。「それらの短く緊密な文章には、芸術的形式や自然や言葉に対する詩人小林秀雄の鋭い感受性が遺憾なくあらわれている。」(加藤周一1980)
(注8)加藤には小説作品と、詩歌集『薔薇譜』(1976)などがある。
(注9)清水ミチコのシミチコチャンネル「歌は音程かリズム感か いいえ歌は...」https://www.youtube.com/watch?v=Lbmaq-uH2Fs
(注10)1年先輩に富永太郎、河上徹太郎、蔵原惟人らのいた東京府立第一中学校、三好達治、中島健三、今日出海らのいた東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を出ている(ウィキペディア)。
(注11)小林の初期小説のひとつ「ポンキンの笑い」(1925年)について、「それは「悩める知性の画期的な慰安的対応物として」の狂女であり、「いきずりの女に対する頭脳的恋情を戯画化したもの」とは大岡昇平のいうところ」佐藤泰正「小林秀雄初期小説・考 ―〈太宰治という場所〉を視界におきつつ ― 」
(注12)「矢崎弾5灯台」のジョン・ダンに関する記載を参照。
加藤周一『日本文学史序説』1975・1980年筑摩書房(文庫版1999年)
伊狩章 日本近代文学館新潟支部『新潟県郷土作家叢書2社会派の文学』1976 野島出版
青野季吉『文学五十年』1957年筑摩書房(写真)
遠山圭一 日本近代文学館新潟支部『新潟県郷土作家叢書2社会派の文学』1976 野島出版
鹿地亘『自伝的な文学史』1959年三一書房
川島祐一「革命思想家北一輝と聖書」2020年 頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要
三村修「佐渡教会史素描」日本基督教団佐渡教会「歴史」
小島毅『近代日本の陽明学』(2006 文庫版2024年)
佐多稲子他『全集・現代文学の発見 第三巻 革命と転向』1968年 學藝書林
横山敏男『新京郵信』1942年 肇書房
佐藤泰正「小林秀雄初期小説・考ー〈太宰治という場所〉を視界におきつつー」1996年
岩野泡鳴『惑溺』(「惑溺」1909)1947年 利根屋書店
日本近代文学館『日本近代文学館大事典』1984年 講談社
厨川白村『厨川白村全集 第二巻』1929年 改造社
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?